襲撃

 ――なんだったのだ、あれは。


 更衣室。

 タオルで自分の汗を拭いながら、ローレルは考える。あの相手の体を覆っていた靄のようなものを。あれを身に纏った男の体は鋼鉄のように固かった。


 殴り付けた拳が、痛むほどに。


 タオルを握り、汗を拭う右手は動く度に痛んだ。もしかしたら怪我をしてしまったのかもしれない。鍛えに鍛えた拳だが、鉄を殴り付けていれば骨折ぐらいはしそうだ。


「はぁ」


 次から次へと吹き出す汗。ローレルはタオルを首にかけて、ロッカー前の長椅子に座った。


 自分が使っているロッカーにはハンズで稼いだ金と、着替えなどが入ったバッグ、それと大きめのサイズの灰色の雨ガッパしかない。雨ガッパが大きめなのは、他人に左腕がないことを無闇に知られないためだ。


 ハンズでローレルを知っている人間には隠す必要はない。ただ、当たり前だが世の中はローレルを知らない人間のほうが多い。


「……疲れた」


 重くなった目蓋を閉じ、ローレルは呟く。

 今まで、体を覆う靄を使った人間はいなかった。ローレルはあんなものは知らない。殴ったら鉄のような感触が伝わる人間など、ローレルは会ったことがなかった。


 右拳の痛みは未だに引かない。久しく体力を消耗しきったローレルは疲れていた。体が異常に熱く、うまい具合に力が入らない。動かそうとあげた右腕も、すぐに落ちてしまう。


「少し、だけ」


 長椅子にローレルは力なく横たわった。寝心地は悪いが、休むにはちょうどいい。


 思考を放棄し、ぼやけた意識の中で、ローレルは体を休めた。そして、ぼやけた意識が完全な闇に溶けていくのに、さほど時間はかからなかった。




  △▼





 ローレルが目覚めたのは、言い様のない違和感がしたからだった。目蓋を開き、右手を使って上体を起こす。


「いたっ!」


 右拳に痛みを感じ、ローレルは眉をひそめる。確認してみれば手の甲が腫れていた。それほど大きな腫れではないが、痛いのは確かだ。今回の闘いは、拳を無理に使い過ぎたらしい。


 ……と。


 ローレルは背後に気配を感じた。不気味で、寒気がしてしまうような気配だった。


 反射的に、ローレルは素早く長椅子から立ち上がり、背後を振り向いた。ここで、構えることも忘れてはいない。覚醒しきっていない頭でも、この程度は容易かった。


 そこにいたのは、先ほど倒した男だった。体を覆う紫色の靄が浮かんでいる……男は両手を広げ、ローレルに飛び掛ってきた。


「くっ!」


 まだ起ききっていない体を無理に動かし、ローレルは横に跳ぶ。男は頭からロッカーに突っ込み、凄まじい音を立てた。


 ローレルは迷わず逃げ出す。拳を使えば、腫れがひどくなるだろう。それ以前に万全な体勢でない今、あの男を倒せる気はしなかった。


 男が何の目的で来たのかはわからない。ただ、負けた後に再び闘いを挑んでくる人間は少なくなかった。女に負けるというのが、信じられないゆえのものだ。


 男の目的がリベンジなのかはわからないが、とにかく今のローレルでは倒せない。さっさと逃げてしまうのが最善だ。


 ローレルは更衣室の出口に向かって走り出す。周りへの警戒は忘れない。

 更衣室の扉に手をかけ、勢いよく開ける。右手に痛みが走るが、気にしてはいられない。


 廊下に出て、人通りの多い場所に出れば目くらましぐらいにはなるだろう。クライムでは助けが当てにならない。誰かに助けを求めるというのは、ローレルの選択肢からは完全にはずれていた。相手があきらめるまで逃げるか、相手が見失うまで逃げるか、だ。立ち止まれば何をされるかわからない。


 ローレルは廊下を走り、北でも南でもなんでもいいから競技場の出口へ向かおうとした。


 だが。


 現実は、甘くはなかった。

 男がローレルに追いついてしまったのだ。口元を押さえられ、背後に引っ張られる。男の胸部とローレルの背中が密着し、男の左手がローレルの口元を塞いでいる。


 言葉にならない声を上げるが、ローレルに何か抵抗をできるわけがない。武器となる右拳は使えない。男の防御力では、攻撃しても無駄だろう。


 もしも。


 もしもローレルが更衣室で眠らずにいたのなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 だが、それはもしもの話だ。後悔しても今は変えられない。


 男が右手に何かを持っていたのか、ローレルのわき腹に物があてられた。次の瞬間、体中に電流が走り一気に力が抜けた。男はローレルから手を離す。ローレルは力なくその場に倒れた。


 起こったことが理解できない。ただ、力が入らない。


「へへへ……」


 男の笑い声と共に、ローレルの目前にスタンガンが現れた。スタンガンの先端が、バチバチと音を鳴らしている。


「悪いが、地獄を味わってもらうぜ」


 その言葉は、ローレルに恐怖を与えるには十分だった。

 ローレルは身動きができないまま、男にどこからか持ってきたロープで体を縛られ、肩に担がれて運ばれた。


 出口を過ぎ、外へ、駐車場へ。担がれたまま運ばれる。男は目立つはずだが、誰も男に声をかけたりはしない。当たり前だ。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだからだ。中途半端な正義感など、クライムの人間は持ち合わせてはいない。ローレルを助ける人間などいない。


 外はもう夜になっていた。ハンズの闘いはもう行われないために、残っている人間も少ないだろう。

 体の痺れはなくなってきたものの、ロープで拘束されている以上はどうしようもない。


 ローレルの背後、男の正面で物音がした。聞きなれている音だ。車のドアを開く音。直後、ローレルは投げられた。やわらかい車の席がクッションとなって衝撃を和らげる。ローレルが放りこまれたのは後部座席だった。


「持ってきたか、ファウル」

「あぁ、要望通りにな。サイファー」


 ローレルを連れてきた男……ファウルは運転席に座った。隣の助手席に座っていた男の名前はサイファーというらしい。後姿しか見えず、赤い髪をしている以外に容姿の特徴は見られなかった。


「久しぶりに遊び甲斐がありそうだぜ」


 ファウルが言うと、サイファーは鼻で笑った。


「楽しみだ」


 エンジンが、かけられる。

 ローレルを乗せた車は、全くローレルの気持ちを考えることもなく、残酷な現実を突きつけた。

 車の行方は、わからない。

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