第8章 再び、逆襲
廃工場を抜け出すと(トタン板のすきまをくぐるとき、レインコートがさらに泥だらけになった。ぜんぜん気にならなかった)、菜美は、まだ痛みの残る足と杖に出せるかぎりのスピードで駅に向かった。あの男が駅前のいつものファミリーレストランにいるのはわかっていた。きょうは一日、そこでいつもの友だちを相手に、くだらない冗談でげらげら笑いながら、浴びるほどビールを飲んでいるはずだった。
急がなければならなかった。いつまでもぐずぐずしていたら、シゲヲが戻ってきて大事なものが盗まれたことに気づいてしまう。シゲヲは怒り狂うだろう。同時にシゲヲは、それがあった場所に菜美の伝言――なんの役にも立たない三角形の物体――が置かれているのに気づくだろう。それがなにを意味するか、あらためて考えてみるまでもない。シゲヲはすぐに追跡をはじめる。まだ完全に回復したわけではないとはいえ、たった一体で宇宙艦隊と互角にわたりあい、旗艦を撃墜するほどの相手に本気で追われたら、たとえ杖に頼る必要のない、健康で敏捷な二本の脚があったとしても、菜美なんかに勝ち目があるわけがない。
中学生も姿を見せなかった。中学生があらわれたら、宇宙刑事ならではの超テクノロジーみたいなやつで、ファミリーレストランに瞬間移動してもらうつもりだったのに。菜美はひとりでやるしかなかった。中学生にしてみれば、このなんだかわからないものが工場の外に持ち出されれば目的達成であって、どこに持っていかれてなんに使われようがどうでもいいのだろう。
ファミリーレストランまでは三十分もかかり、無事だったほうの足までがズキズキと痛みはじめていた。平屋建ての大きな店舗、その手前には同じ敷地に建つ家電量販店やホームセンターと共有する大きな駐車場がある。お昼にはまだはやいので、駐車場は、いちばん奥に薄汚れたミニバンが停まっているだけだった。あれが中田の車なのを菜美は知っていた。中田は頭が悪いので(パパを名乗るあの男が、ことあるごとにそういっているのを菜美は知っていた)、しょっちゅう運転手役を務めさせられる。いまもファミリーレストランのテーブル席で、ほかの仲間が浴びるようにビールや安ワインをつぎつぎと流しこんでご機嫌になっているのを尻目に、ソフトドリンクのストローをくわえながら気弱な笑みを浮かべていることだろう。
店には入らず、窓からなかのようすをうかがった。閑散とした店内でひっきりなしにばか笑いする集団を見つけるのはかんたんだった。いつもの四人だった。思ったとおり、中田はいちばん通路側の席にいて(それも、ファミレス特有のけばけばしいまっ赤なシートに、いまにもずり落ちてしまいそうなほど浅く腰かけて)、酔っぱらいのばか話にわかったようなわかっていないような曖昧な笑みを浮かべながら、オーダーの端末を片手に、かれらの注文を入力しては送信する役に徹していた。小島と板野もいた。小島はすでに酔い潰れてテーブルに突っ伏していた。ほかの三人がグラスを置いたり肘をついたりする場所を慎重に選んでいるのは、きっとあのあたり……小島の顔がテーブルに接しているあたりを中心に、かなりの量の汚物が流出しているからだった。板野はヘンタイだった。帰りの電車がなくなったとかで家に泊まったとき、部屋のふすまを細く開けて、寝ている菜美を、気味の悪い目つきでいつまでも眺めていた。菜美は眠ってなんかいなかったから知っていた。あいつがさらにふすまを開いて部屋のなかまで入ってきたら刺すつもりで、ふとんにハサミを持ちこんで握りしめていた。
そして最後に……あの男。パパと呼ぶことを強要し、パパというよりは冷酷な独裁者として君臨することを好み、パパとしての責任とは、おびえきってまともに抵抗もできない子どもを、しつけと称して死ぬまでぶちのめすことだと信じている男。隼人を殺した男――それがパパである自分に与えられた当然の権利なんだから、行使しないのは損だとばかりに。動くことはもちろん、肺に空気を入れてゆるしてくださいの八文字を声にすることさえできなかった四歳の男の子を、親をばかにしてるといいがかりをつけて、部屋の反対側に吹っ飛ぶくらいのいきおいで蹴り飛ばした男。いま、なにがそんなにおかしいのか、仲間といっしょにげらげら笑っている。あの男。顔をまっ赤にし、ソファからいまにもずり落ちてしまいそうで、そのくせ窓の外からのぞきこんでいる子どもの顔に、目の焦点をしっかり合わせられるていどには酔っていない。あの男。
菜美に気づいた。
それまで浮かべていたばか笑いが消えてなくなったのでそれがわかった。ソファのうえで、多少ともまともな姿勢になるように身体を起こした(といっても、テーブルより下にありがちだった顎の位置が、もうちょっと高いところにとどまるようになったていどだった)。目が、研いだように細くなった。雲行きがあやしくなったのを察したのか、中田がうろたえたようすでソファから腰を浮かしかけた。板野が窓のほうに身を乗り出して目を細めた。ヘンタイともなると、いちどしか見ていない子どもの顔でもちゃんとおぼえているものらしい。小島は自分のげろのなかに突っ伏したままぜんぜん動かなかった。
おい、あれ、おまえんとこのむすめじゃねえか、板野の口の動きはそういったように見えた。
それには答えず男は立ち上がった。よろけてテーブルにぶつかりそうになり、中田に腕をつかまれた。それを乱暴にふりはらい、険悪に歪んだ目は菜美のいる窓をにらみつけたまま、かなりあやしい足取りで、出口に向かってあるきはじめた。
ヘンタイの板野が立ち上がって叫んだ。おい、そんなガキほっとけよと口が動いた。たいていのヘンタイの例に漏れず、板野も滑稽なくらい気が小さかった。トラブルの気配を嗅ぎつけて、はやくもうろたえはじめていた。
出入り口の二重扉を押し開けて、男が駐車場に出てきた。いまや全身から怒りのオーラを放っていた。まっすぐあるいているつもりが、足元がおぼつかないので斜めになっていた。菜美も窓のまえをはなれると、足を引きずりながら、男が正面にくる位置まで駐車場を横切りはじめた。
いよいよだ、と菜美は思った、ここで決着をつけてやる、と。
つづく
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