第6章 シゲヲ再訪

 路地の突き当たりのトタン板は、菜美が一ヶ月まえに訪れたときと変わらず、斜めにずれたままだった。レインコートを脱いでランドセルを降ろした。雨は、家を出てから苦労してここにくるまでのあいだに、だいぶ弱くなっていた。大きな水たまりができているのもかまわず、慎重に膝をついた(へたにいきおいをつけて動くと、まだ完治したとはいえない膝に、カナヅチで殴りつけたような痛みが走る)。ランドセルを泥のなかに押しやりながら、狭いすきまにもぐりこんだ。

 杖をたよりに、かなり苦労してふたたび立ち上がると周囲を見まわした。こんな天気の日には、シゲヲがたいして広くない敷地をうろついていることがすくなくない。もしここにあの不気味な姿があったなら、ずっと握りしめていたこの三角形、じつは武器どころかなんの役にも立たないガラクタでしかなかったこれを力まかせに投げつけてやるつもりだった。それでシゲヲが怒りだしたとしても知ったことじゃない。殺したければ殺せばいい。それをうわまわって菜美は怒っているのだから。

 シゲヲの姿はなかった。菜美は詰めていた息を吐いた。レインコートとランドセルをそこに残して、傾きかけた建屋に向かった。

 天井の穴から外の灰色の光が、雨といっしょに落ちていた。床のコンクリートには黒っぽいしみのような水たまりができていた。奥の壁ぎわ――いつもシゲヲがうずくまっていたところ――は、そこだけたえず空気が吹きつけられていたように、砂粒や埃が同心円を描いていた。シゲヲの姿はなかった。とするとやはり外をうろついているのか。

 床が抜けてできた大穴はこのあいだから変わっていなかった、なかにいるものもふくめて。もっとも、辺境の惑星で生まれ育ち、ほかに世界があるなんていままで考えたこともなかった十歳の少女に、それが変化したかどうかなんて見わけがつくわけがなかった。

 そこにあるのはこのあいだ見たときと同じ、ときおり正体不明の明かりがまたたく、巨大な影のかたまりだった。いや、ちょっと大きくなっていた。かもしれなかった。あんなにあちこちから、細い影が、巻きひげのように渦を描きながら伸び出していただろうか。たぶん。あれは生き物なんだろうか。さあ。あれはやっとけがが治って、いつでも元気に動きだせる状態まで回復したんだろうか。

 どうだろう。

 中学生はそういった。あれは生き物で、同時に機械で、けがと故障をしていて、それがもとどおりに治るまで、暗く静かな場所でじっとうずくまっているんだと。

 いや、正確には、中学生はかもしれないといったんだった。中学生はかもしれないをたしかめて、そうだにしたいんだといった。

 それは菜美が路地に入る角を曲がったときのことだった。いきなり後ろからランドセルをつかまれて、強く引っぱられた。痛めた足がねじれ、あやうく後ろに倒れてしまうところだった。あわてて手を振り払い、背後のやつに目を向けた。あの中学生だった。中学生の動作は、あのときにくらべるとだいぶなめらかになっていた。菜美はとっさに杖で打ちかかった。中学生はそれを、へんなふうにひねった手首で受け止めた。ばしっという音からして、かなり痛かったはずだ。中学生は表情ひとつ変えなかった。

 しゃべりかたも、このあいだにくらべればいくらかましになっていた。しゃべる内容はというと……、このあいだとくらべものにならないほどまともじゃなかった。菜美はしかしそれを信じた。なにしろ工場にはシゲヲがいる。シゲヲをまのあたりにしてしまったら、常識なんて、人の精神が狂気の側にはみ出さないために設置された、狭いガードレールでしかないことがよくわかる。なにかが動いた。

 とっさに菜美はふりかえった。

 たしかに、いま。建屋のなか、菜美の視野のはしで。黒く、大きなものが、ゆっくりと。

 そんな気がした。

 まさかあんなに大きなものを見落としていたなんてことがあるだろうか。そのいっぽうで、人間なんてものは、けっきょく常識の範囲におさまらないものは、目に入っても見ることはできないんだと思いなおした。菜美は常識から飛び出さなければならなかった。耳をすました。また雨が強くなってきたのか、鉄板の屋根を叩くうつろな音が、テンポをはやめながら大きく響きはじめていた。低い、いびきに似た音がどこからか聞こえていた。聞きようによっては機嫌をそこねた大型犬のうなり声のようでもあった。シゲヲがどこかの影のなかから菜美に向かってうなっているのかもしれなかった。

 この大きな建屋のどこにシゲヲが隠れていてもおかしくなかった。たったひとりで惑星ひとつをまるごと壊滅させてしまったというシゲヲ。治安軍と六十年ものあいだ交戦状態にありながら、決して反撃の手をゆるめることなく、最後には致命的といえるダメージを負うのと引き換えに旗艦を撃墜したというシゲヲ。そんな凶悪なやつが、いま、ふたたびあらわれた侵入者に、どこかの暗がりから襲いかかるチャンスをうかがっている。

 またなにかが動いた。菜美は目を向けた。窓の外だった。

 工場の中庭だった。工場の中庭にそれはいた。菜美はひびの入った窓ガラス越しにその姿を見た。蝟集し、たえず揺らめく影のかたまりでありながら、それにはたしかにかたちがあった(中学生によると、その影は、ほんとうの姿を隠すための光学的なマントみたいなものだという)。菜美は七本の腕と二本の脚、ひとつの頭を見わけることができた。おおむね人に近いかたちなのもわかった――大きすぎる上半身と、ひときわ長く、かがんでいなくても地面に届いてしまう二本の腕、左右の肩のあいだからまえのめりに突き出している、ひらべったい頭に目をつぶりさえすれば……まあ、人間みたいに見えないこともないわけじゃない、くらいのことはいえなくもなさそうな感じだった。

 シゲヲだった。シゲヲは建屋がじゃまをして敷地の外からは見えない工場の中庭にたたずんで短い首を伸ばし、降りしきる雨のなか、顔を空に向けていた。雨水を飲んでいるのかと思った。でも、たったひとりで汎銀河艦隊と互角にわたりあうような怪物が、雨粒なんかありがたがって飲むだろうか。お祈りしているようにも見えた。神様とか、いまはもういない大切なだれか――それはひょっとして、かつてひどいやりかたで殺されてしまったシゲヲの肉親かもしれない――と、心のなかで会話しているようにも。

 いずれにしてもチャンスだった。シゲヲは外にいる。シゲヲは空を見上げている。シゲヲはこっちに気づいていない。

 杖をつき、足を引きずりながら、床の大穴を迂回して建屋の奥に向かった。なるべく窓に目を向けないようにした。窓の外のシゲヲはほとんど身動きしなかった。とはいえ、こっちがうっかり目を向けてしまうと、視線を感じてふりかえらないともかぎらない。

 音をたてない努力と、可能なかぎりすばやく動くことはいっしょにできるものじゃないと、はやくも菜美は――じつをいうとシゲヲを目にしてからのさいしょの一歩で――気づいていた。こんな身体だから、どんなに気をつけても、まったく音をたてなくできるわけがない。音をたてるのがこわくてナメクジみたいにゆっくりゆっくり動いていたら、いずれシゲヲに見つかってしまう。どんなにやかましい音をたててでも、一分、一秒でもはやくやらなくちゃいけないことをかたづけて、ここから出るほうがいいに決まっている。

 菜美は急いだ。

 崩れかけた建屋の高い天井に、床を杖でつく音と、荒い呼吸音がやけに大きく響いた。

 シゲヲは中庭から動かなかった。

 やっと奥の壁ぎわにたどり着いた。菜美は見上げた……ずっと高いところで複雑に組みあわさった鉄の梁が、嵐のなかの船のように、ときおり苦しげなきしみをあげていた。菜美は見下ろした……床のコンクリートに積もった砂埃が、壁ぎわを中心に、かなり広い半円形の範囲できれいに吹き払われていた。菜美は見つめた……壁も、座りこむ巨大なものの輪郭をなぞるように、汚れが塗装ごと剥ぎ取られ、下地の金属の鈍い輝きがのぞいていた。あの影――光学的なマント――は力線で光をねじ曲げる。ずっと同じ場所に座りこみ、たえず力線を放射しつづけるとこんなふうになる。

 たくさんのがらくたが散らばっていた。菜美が知っているもの――地球のもの――もあれば、菜美にはなんなのか想像もつかないもの――たぶん地球のじゃないもの――もあった。忙しく目を動かした。あやしげなやつをひとつずつ拾いあげてたしかめるよゆうはなかった。


つづく

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