第5章 雨
遠くから見ても、少女の姿はすぐにそれとわかる。
雨の朝、レインコートのフードを目のところまで引き降ろし、傘はささず、小学生には似つかわしくない杖をついて、足を引きずりながらあぶなっかしく歩道橋の階段をあがっている。鮮やかなオレンジ色のレインコート、そのふところがいびつに膨らんでいるのは三角巾で片手を吊っているからだ。どんなにフードを深く降ろしていても、でたらめに顔に貼られた何枚もの大きなばんそうこうも見まちがえようがない。さらに見つめれば/ズームすれば、ばんそうこうの下から、黄色と青を混ぜあわせたようなあざがはみ出しているのも確認できただろう。そこまでする必要はない。なにが起こり、どうなったかは正確に把握されている。
わからないのは、彼女がこれからなにをするつもりかだ。
救急病院に運びこまれたとき、彼女の母親は、つまづいて階段から落ちたんだと、ほとんど叫ぶような声で訴えた。まだだれもそんなことを訊いてもいないのに、勝手に落ちたんだとくりかえした。医者や看護師が瞳孔にペンライトをあてて反応をたしかめ、血圧と脈拍を測り、MRIだのCTだのICUだのの手配をするあいだ、彼女は二十四回、その言葉を使った。勝手に。勝手に外に飛び出して、勝手につまづいて、勝手に階段から落ちた。階段を落ちるあいだ、勝手にあちこちに腹や顔、頭をぶつけ、勝手にこんなあざをこしらえた。勝手に腕がへんな方向にねじ曲がり、勝手に意識を失い、勝手に裂けた頭の傷から、勝手にものすごい量の血が噴き出した。ぜんぶ勝手に起きたことだった。そこにはほかのだれか――たとえばこの重傷者を、救急車を呼ぶのではなく自宅の軽自動車でつれてきた男とか――は、まったく関係がない。
事実とちがう。
しかしそれは、少女の母親にとっては重要なことでもなんでもなかった。それを叫べば、たくさん叫べば叫ぶほど、それが事実になると信じているように叫びつづけた。勝手に勝手に勝手に勝手に!
彼女をここまで運んできた男は、あからさまに動転している妻とは正反対の、やけに冷ややかな口調で車を停めてくるといいおいて、そこから姿を消した。医者と看護師が何人も集まり、声をかけあい、ストレッチャーに身を乗り出しているのはぜんぶ彼の娘のためだというのに、男は車から降りるどころか、ハンドルから手をはなそうとさえしなかった。医者が駆けつけてからずっと、冷笑めいた表情を浮かべていた。目は笑っていなかった。目は、医者に話しかけられたときも(無視した、もちろん)、娘の服がハサミで切り裂かれ、薄い胸とそこに広がる世界地図みたいなあざがむきだしになったときも、冷徹にある一点を見つめて動くことがなかった。
なんとかのひとつおぼえよろしく、勝手にを連呼する母親を。
少女が階段を落ちるのではなく、ほんとうはどんな目に遭わされたかをこの場で知っている、ただひとりの他人を。母性愛とやらに狂わされて(そんなものがほんとうにあるなんて、男はいちどたりと信じたことはなかった)、致命的なことを口走ってしまうかもしれない女を。
女は勝手にを三回口にするたびにいちどのわりあいで、男に目を向けていた。女は動転してはいたものの、そこまで理性を失ってはいなかった。女はまだ男の手のなかにあった。男は満足した。
アパートに帰るとちゅう、いちどだけ車を停めて、安売りの酒屋でビールを大量に買いこんだ。娘を殴りはじめたときに飲んでいたビールは、とっくに気が抜けてぬるくなっているはずだった。
少女は一ヶ月近く入院した。そのあいだ、父親と称する男はただのいちども見舞いに訪れなかった。それをいうなら母親だって、パートのあいまをぬって娘を見舞ったのはかぞえるほどしかなく、しかも病室の滞在時間は、娘との気詰まりな時間を過ごすたびに最短記録を更新しつづけた。
少女が退院したのはつい先週のことだった。
入院しているあいだずっと、少女は、廃工場と、そのなかに潜んでいるもののことばかり考えていたにちがいない。週末こそ部屋でおとなしくしていたものの、週があけると学校に行くといいだした。その身体じゃまだむりだと母親は反対した。少女は片頬の皮肉めいたえくぼでそれに応えた。それまで母親に向かってそんな表情を見せたことはなかったのだろう、得体のしれないその表情の意味をはかりかねて、母親は黙りこんだ。男はなにもいわなかった。そのとき男は家にいなかった。じつをいうと行きつけのスナックに新しく入った女の子との関係を深めるのに忙しくて、このところほとんど家に帰っていなかった。もし男が家にいて、少女の無言で威嚇しているようにも見えるあの表情を目にしていたら、まだ自分の足だけではまともに立っているのもままならない、ひょっとしてこのさき一生、こうやって杖をたよりに足を引きずってあるかなければならないかもしれないことなんておかまいなしに、ためらうことなく鉄拳を食らわせたことだろう。まともにあるけないんだから、階段から落ちたといういいわけも、ずっともっともらしく聞こえるにちがいないとか考えながら。だからこのあいだより力をこめて殴ってもだいじょうぶだとさえ思ったかもしれない。
自分が落ちたとされるアパートの外階段まで見送りに出た母親をいちどもふりかえることなく、降りはじめた雨のなか、少女は学校に向かった。いつもより一時間いじょうもはやい時間だった。学校までは十分もかからない。もちろんこれは、少女がふつうにあるくことができればの話だ。杖にたよりながらだと、すくなくとも三十分はかかる。それに彼女には、きょう、どうしても寄らなければならない場所があった。
足を引きずる老人じみた足取りにもかかわらず、遠目にも、少女がひどく腹を立てているのがわかった。いったいなにがそんなに気に入らないのか、少女はいちども休むことなく歩道橋を渡りきった。雨で滑りやすくなっている階段を降りるときこそ慎重だったものの、決然とした足取りをゆるめることはなかった。
その怒りは、どうやら彼女が手にしているものに関係しているらしい。片手を三角巾で吊っているので、残ったほうの手で杖といっしょに握っている。三角形の物体。どういうわけかそれを、決して手からはなそうとしない。ランドセルにでも突っこんでおけば、杖もあんなあぶなっかしい持ちかたをする必要がなくなるし、階段だってずっと楽に降りれるだろうに。
あれは……ほんとうに見たとおりのものなんだろうか。どうしてあんなものを持っているんだろうか。あれがなんなのか彼女は知っているんだろうか。
ズームする。
電子脳の遠隔操作装置に見えた。それも壊れた。たぶん、まちがいなかった。
どこであれを手に入れたのかは考えるまでもない。少女の目的地がわかりきっているのと同じように。ただ、なんのためにまたあそこに行くのかがわからなかった。あんなものを、いかにも大切そうに握りしめて。そのくせあんなに腹を立てて。
少女が入院していたあいだも歩道橋が利用されることはすくなくなかったが、階段を降りてあの狭い路地に入ったのはふたりだけだった。ひとりはすぐそばの高層マンションにひとりで暮らす老人、もうひとりは道に迷った営業マンだった。老人はスーパーで買い物をした帰り道、とつぜん自分がどこにいるかわからなくなってしまったからだし、営業マンは駅への近道だと思いこんだだけだった。どっちも路地の突き当たりまでは行ったものの、そこから引き返してきた(老人は二時間近くその場に立ちつくしたまま動こうとしなかったので、かなりやきもきさせられた)。ふたりとも、トタン板の向こうが雑草に覆われた廃工場だと知らなかったし、ましてやそこに、この惑星のものじゃない知性体が隠れているなんて、想像すらしていなかった。
気づいているのはあの少女だけだった。あの、何度も足を滑らせながら、危なっかしく階段を降りきり、路地に向かってあるきはじめた少女だけだった。あのなかに入ったことがあるのも彼女だけだった。つまり、なかのようすを知っているのも彼女だけということになる。
手あたりしだいにあらゆるものを破壊してきたあれが、彼女に手を出さなかったのは意外だった。肩すかしだったとさえいえる。少女が工場にはじめて入りこんだとき、まちがいなく殺されるとだれもが考えた。死体は、この惑星ではごく一般的な、砂礫を塗り固めてたいらにした壁面に、ほとんど原型をとどめずぶちまけられることだろう。そうなれば協定の例外条項が適用可能になる。つまりだれに非難されることなく、この惑星であれを攻撃できるようになる。もちろん反撃はされるだろう。戦闘は周辺地域を巻きこんでまたたくまに規模を拡大するだろう。原生種の保護命令は、知性の有無にかかわらず、優先順位のリストをまっさかさまに転げ落ちるだろう。そうなれば死ぬのはあの少女だけにとどまらない――少女を殴る父親じゃない父親も、それを黙って眺めているだけの母親も、少女との接触に使っているこの少年も、この街も、この街をふくむ、この惑星のかなりの部分も、あとかたもなく破壊されることになる。
しかしそれはしかたがないことった。あれを破壊できることを考えれば、まったくとるに足らない犠牲だとさえいえる。
そのためには、まずあれに、少女を殺してもらわなければならない。少女にはあれに殺されるような挑発行為をしてもらわなければならない。
少女に目を向けた。少女は足を引きずりながら路地に姿を消そうとしていた。
つづく
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