第4章 逆襲

 テレビばかりがはしゃいでいる食卓で、菜美はいちども顔を上げなかった。母親はいつもの泣きたいのか笑いたいのかわからない笑みを浮かべて、菜美を――菜美だけを――じっと見つめていた。母親がテーブルの下で、両手をきつく握りあわせているのを菜美は知っていた。あの夜、ただひたすら待つことしかやることのない、いつか明けることがあるなんてぜんぜん思えなかった長い夜に、ひとけのない救急病院の長い廊下に置かれたソファに座って、いつまでもそうやっていたように。

 パパが――ことあるごとにパパと呼べと要求するこの男が――テレビを見るふりをしながら、視界の片隅で娘のようすを観察しているのも、菜美は知っていた。テレビでは菜美のよく知らないお笑い芸人が視聴者からの手紙を読み上げ、それについてゲストのタレントがなにやらコメントしていた。ときおりはさまるわざとらしい笑い声もひっくるめて、あれのどこがそんなにおかしくて、そもそもなんの番組なのか、菜美はさっぱりわからなかった。パパと呼べ男はこのお笑い芸人の番組が大好きだった。ボケがだれにも思いつかないようなとんでもなくとぼけたことをいい、ツッコミが、ほとんど殺意があるとしか思えない手つきでひっぱたく。そういうところを気に入っていた。あの夜もテレビではこのお笑い芸人がはしゃいでいた。そう考えると、今夜とあの夜の共通点はまったく無視できなかった。今夜もまたあの夜みたいなことになるかもしれなかった。いままでの菜美だったら、そう考えただけでおそろしさのあまり、まともにしゃべることはおろか、指の一本も動かせなくなっていただろう。今夜はそうはならなかった。それは、今夜とあの夜との、ただひとつの、そして決定的なちがいだった。

 菜美は手にあの三角形を握り、その手を膝のあいだに押しこんでいた。おかげで夕食を片手で食べなければならなかったが(そしてそれは、あの男に、しつけと称するリンチをはじめさせる絶好のいいわけになるのだが)、もとより食事をするつもりがなかった。どうせレンジで温めただけの冷凍食品だし、いまは食事するのを許されてもいなかった。男の太く、節くれだった指が、規則的にテーブルを叩いていた。母親がビールを注ぎたすと、そのときだけ指の動きが止まり、グラスをつかんで意地悪な薄笑いを浮かべた口元に運んだ。

 この家では小学生の門限は午後四時である。それ以降の外出は親に――具体的にいうと、あの独裁者然と食卓に肘をついて斜めに腰掛け、ビールを片手に大好きなバラエティ番組に声をたてて笑っている殺人犯に――許可をもらわなければならない。きょう、菜美が家に帰り着いたのは四時十分だった。十分の遅刻である。あの中学生が家までついてこないように遠まわりしたからだった。きょうにかぎってたまたまこの男は家にいた。つまり、きょうはいっしょに呑みあるく友だちも、パチンコにつぎこむ金もなかった(家族のために汗水流してはげまなければならない仕事はいうにおよばず)。それは彼が一日じゅう家にいて退屈しきっていることを意味していた。そしてこの男が退屈しのぎにすることといえば、無抵抗な子どもを思いっきり殴りつけるか、無抵抗な内縁の妻を、呼吸もろくにできなくなるまで強く蹴りつけるかのどっちかしかなかった。

 だから、グラスをテーブルに戻した手が、指先でふたたびテーブルを叩きはじめるのではなく、こっちの顔めがけていきなり飛びかかってきたとしてもおかしくはなかった。

 それでも菜美はこわくなかった。こわがる理由なんかなかった。手に、シゲヲからもらった物体――〈銃〉――があったから。

 おびえてはいた。殺すことにではなく、自分がほんとうにそれを使うのか、それはいつのことなのか、ぜんぜん想像もつかなかったから。

 何杯めかのビールを飲み干し、ツッコミの、いつもながらの本気としか思えない強烈なパンチに大笑いしたあと、菜美に顔を向けることなく、男がいった。

「おまえ、いつまでそうやってるつもりだよ?」

 母親がびくっと身をすくませた。菜美はなにもいわなかった。身じろぎひとつしなかった。ただ、目が……それまでよりいっそう険悪な光をたたえて、テーブルの向かいの男をにらみつけた。具体的には男の首すじ、頭と胴体をつないでいる弱い部分、これから数秒のうちに、その正体がなんであれ、手のなかの三角形が射出するだろう破壊エネルギーが直撃するはずの場所を見つめていた。

「おいっ!」

 叫ぶと、テーブルを殴りつけて男が立ち上がった。ビールのグラスが吹っ飛んで床で砕けた。男は巨大だった。ほとんど天井に頭がぶつかりそうなほど、テーブルのうえに乗り出した姿は、そのままいっきに菜美の頭上になだれ落ちてくるようにさえ思えた。菜美は落ち着いていた。母親の表情が握り潰したように崩れて……、いまにも泣き出しそうな、それでいて起こるべきことがやっと起こったことに安堵しているようにも見える表情を浮かべたのにも気づくよゆうがあった。テーブルの下に隠していた手をゆっくりと出した。自分ではゆっくりと動いているような気がしていたものの、じっさいにはそれは、頭のなかで何十回も練習したとおりの、すばやい動作だった。そのすばやい動作をとぎれさせることなく、菜美は椅子を後ろに倒して立ち上がり、三角形を両手でかまえて男に――パパと呼べ男に――人殺しに――突きつけ、それを目にした男がおそろしく緩慢にまばたきし、まのびした声でなぁぁぁぁぁああんんんだそぉぉぉぉおれぇぇぇえはぁぁぁああああと叫んだのには、頭のなかですぐに思い知るよ死んでからねと答え、反動にそなえて両肩の筋肉をこわばらせた。

 一撃でかたづけるつもりだった。容赦なく。完全に。あとかたもなく。


つづく

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