第3章 謎の中学生

 気がつくと歩道橋を渡りきって、階段を降りていた。日が暮れかけていて、長く伸びはじめた影が街を呑みこもうとしていた。

 どうやって工場を出たのかはもちろん、けっきょくあの取り引きが――先方はどう考えているかはともかく、菜美は取り引きのつもりだった――どうなっちゃったのかも、まったくおぼえていなかった。記憶が操作されたのかもしれない……急に不安になったが、工場の建屋の奥の暗がりにうずくまるあのおそろしい姿は脳裏にしっかりと焼きついている。コンビニのビニール袋も手元にない。つまりあそこに行って、それを置いてきたのはまぎれもない事実だった。

 手に、なんだかよくわからない、重いものを持っていた。

 歩道橋のまんなかあたりにくるまで、自分がそんなものを持っている――ただ持っているだけじゃなく、指の関節が痛くなるくらい強く握りしめている――のに気づかなかった。どこでそんなものを手にしたのか、まったくおぼえていなかった。それがなんなのかもわからない。光沢のある一辺が十センチくらいの三角形の物体で、オレンジ色のすじが何本か走っている。金属製のようにも陶器のようにも、プラスチックのようにも思える。重さと、持った感じからすると、中身はぎっしりと詰まっている。

 なんだかわからない。ただ、シゲヲに関係しているのはまちがいない。

 つまり取り引きは成立したんだろうか。階段を降り、さいしょの角を家の方向に曲がりながら菜美は考えた。たぶん。弁当のビニール袋が手元にないのがその証拠だった。シゲヲは依頼を受け、報酬を手に入れた。そして菜美はこれ……このなんだかわからない物体を渡された。

 たぶん。

 とするとこれは武器みたいなものかもしれない。これで殺れ、という意味なのかも。ひっくり返してみた。たしかにそれは武器に――ピストルみたいな武器に――見えないこともなかった。すくなくとも菜美の目にはそう見えた。三角形の頂点のひとつが銃口で、もうひとつの頂点が握る部分の底になる。ためしに握ってみた。しっくりこなかったので向きを変えてみた。すると銃口に相当する頂点が浅くくぼみ、ひとさし指を置いたあたりには長い切りこみがあるのに気づいた。当たりだった。これは武器で、こう握るのが正しい。

 ほんとうだろうか。菜美は立ち止まった。

 コンビニのまえだった。手前の駐車場で、カラスが生ゴミをついばんでいた。まわりにはほかにだれもいなかった。街はおそろしいくらいに静かだった。菜美はカラスから目をはなすことなく、両手で〈銃〉をかまえると、ひとさし指を切りこみに添えた。

 息を止めた。反動にそなえて両肩にぐっと力をこめた。

 気配を察したのか、カラスが頭を上げた。空がだいぶ暗くなり、街灯がともりはじめていた。あれほどくっきりと、街を日の当たる場所と当たらない場所に区切っていた影が、ひとつに溶けあわさって、そこらじゅうを同じ暗い色合いで塗り潰そうとしていた。カラスが首をかしげて菜美を見つめた。大粒の汗が、菜美の顔を伝って顎まで流れ落ちた。

 ……撃たなかった。

 カラスが黒い翼を広げ、ひと声するどく鳴いて飛び立った。菜美は肺にためていた空気をいっきに吐き出した。

 こんなところで撃とうものなら、響きわたった銃声で、たちまちたくさんの野次馬が集まってくるにちがいない。だいたい、一発しか銃弾がこめられていなかったらどうする。見ず知らずの小学生に武器を貸すのだから、そのくらいの用心をしていてもおかしくない。いまここで、試し撃ちなんかして貴重な一発をむだにするわけにはいかなかった。

 三角形の物体を持ちなおすと、ふたたびあるきはじめた。あやうく中学生にぶつるところだった。

 たぶん中学生だった。紺色のジャケットと、臙脂にグリーンのラインが入ったネクタイの制服は、菜美も見かけたことがあった。いつからそこにいたのか(いや、さっきまでそこには、ぜったいだれもいなかった、たしかめたんだからまちがいない)、コンビニのまえのせまい道路のまんなかに、片手で自転車のハンドルを握って立っていた。靴を履いていなかった。白い綿のソックスが、土ぼこりで足の甲のあたりまで汚れていた。

 顔は影にまぎれてよくわからなかった。その顔の影は、周囲よりもほんのすこし濃いような気がした。

 とっさにシゲヲからもらった物体を背中に隠した。ほんとうに、いつからそこにいたのだろう。菜美がそれでカラスを撃とうとするのを見ていたんだろうか。影に覆われた顔は表情もよくわからなかった。

 通り道のまんなかにいるので、菜美はそれを迂回しなければならなかった。背中に隠したものを見られないように、身体の向きを変えながらその横をとおり抜けた。中学生は動こうとしなかった。低い声でつぶやいた。

「みたあそこをでなに」

 抑揚のない、ひとりごとみたいに聞こえる声だったから、自分が話しかけられたとは思わなかった。いや、思わないことにして、菜美はそのままあるきつづけた。気味の悪いやつだった。気味の悪いやつを見るのは今回がはじめてじゃなかった。去年の夏は、通称〈ヘンタイじいさん〉が通学路に出没してPTAが大騒ぎになった。下校中の小学生を見つけると、後ろから近づいて髪の毛を引っ張ろうとするおっさんも見たことがある(通称〈ヘアー〉)。道のまんなかでひとりごとをいう中学生なんて、ぜんぜんまともなほうだった。

 中学生はしかし、菜美が通りすぎるとそれを追うように身体の向きを変え(菜美はそれを目で見たわけじゃなく、気配で察した)、あとをつけてきた。

 自転車を使おうとは思わなかったらしい、手をはなされた自転車は、音をたててその場に倒れたきり見向きもされなかった。中学生は足を引きずる奇妙なあるきかたで菜美の背後にぴったりとくっついてきた。

「どうしてだれにたのまれたいったあそこに」

 あきらかに中学生は菜美に向かって話していた。しかもそれは問いかけだった。菜美に答えを求めていた。

 ふりかえらず、かといって足をはやめるのもがまんして、平気なふりをしてあるきながら、菜美は両手で握りしめた三角形のことを考えた。なぜか中学生の狙いはこの物体だと思えてならなかった。これを渡せば消えてくれるだろうかと考えた。立ち止まってふりかえり、あの、影で塗り潰されたような判然としない顔めがけて物体を投げつけてやったらどうなるだろうと考えた。考えただけじゃなくじっさいに立ち止まった。

 すると背後にいるそれの――〈ヘンタイ中学生〉とでも呼んでやることにするか――存在が、大きく膨れあがった。そんな感じがしたとかなんてレベルじゃなく、まちがいくなくそうなっていると直感した。おそろしくてふりかえることができなくなった。もしここでふりかえったら、そこで菜美が目にするのは、道路いっぱいに広がって、いまにもこっちに崩れ落ちてきそうな、巨大な影のかたまりにちがいない。それは工場の奥にうずくまっていたシゲヲによく似ていた……シゲヲとちがうのは、そのてっぺんに中学生の生首が載っていて、その顔は依然として黒ぐろと影に覆われているのに、不気味なニタニタ笑いを浮かべているのがはっきりとわかることだった。

 ただ想像するだけじゃなく、菜美はそれを、自分の目でたしかに見たと確信しさえした。耐えられなかった。悲鳴をあげて駆けだした。

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