第2章 取り引き
外とはちがい、建屋のなかはひんやりとした影に満たされていた。目が慣れるまでの短いあいだ、菜美はその場に立ち止まって(へたに動きまわるとつまづいて転んだり、床の深い穴に落ちてしまいかねない)、建屋の奥を見つめていた。シゲヲはそこにいるはずだった。シゲヲの姿はなかなか見わけられなかった。ふいに、いざこうしてその相手と向きあったとして、なんて話しかければいいかぜんぜん考えていないことに気づいた。だいたい、どう呼びかければいいんだろう。ちょっとすいません、だろうか。はじめましてこんにちは、だろうか。シゲヲなんて勝手な名前をつけられているのを知ったら、腹を立てるんじゃないだろうか。そして怒りだしたら、あのパパと呼べ男と同じく、手がつけられないことになっちゃうんじゃないだろうか。
やっとなかのようすを見わけられるようになってきた。備品や設備を取り払われた建屋のなかは、ほぼがらんどうだった。天井にあいたいくつもの穴から、午後の陽射しが斜めにさして、床のコンクリートや、そこらへんに無造作に積み上げられた鉄骨、床の一角が抜け落ちてできた大きな穴を照らしていた。それは――シゲヲは――、そのいちばん奥にうずくまっていた。
雨の午後、歩道橋から割れた窓越しに、建屋のなかをうろついているのを見たのより、はっきりとその姿を見わけられたかというと、そんなことはなかった。それは周囲の影よりわずかに濃い、影のかたまりにすぎなかった。どうかすると目の錯覚かと思ってしまうほどだった。たくさん関節がある脚を複雑に折り曲げているのはわかった。何本もある長い腕を身体のなかにたくしこみ、まえかがみの姿勢で、とつぜんの侵入者――菜美のことだ――を見つめているのもわかった。人のかたちをしているかどうかは……、わからなかった。
声をかけてみた。
「こんにちは?」
まわりにくらべて濃い影のなかでも、いっそう濃い部分で、小さな赤い光がまたたいて消えた。まばたきしたんだと菜美は思った。対象までの距離を測り、その目的と、どんな武器を持っているかを推測し、もっとももろい箇所を――最小の攻撃で最大の効果をあげられる攻撃ポイントを――特定したんだなんて思いもしなかった。ちびでやせっぽちの十歳の少女なんて(べつにちびでやせっぽちの十歳の少女だと識別したわけではなかったが)、どこをどう攻撃しても、壊滅的な損傷を負わせることができただろう。それも腕の一本をひとふりするだけ――菜美やそのほかの地球人たちが、うるさい虫にするのとまったく同じやりかた――で。
それは動かなかった。
そんなことをしたときの影響が予想できなかった。
いつまでもここにとどまっているつもりもなかったから、情報収集はろくにやっていなかった(そのための装備をあらかた失ってもいた)。それでもこの小さいやつが、この惑星の優占種の幼体であることくらいはわかった。この優占種には社会性があることも。社会性はやっかいな特性だった、あるレベルになると、幼体を守ろうとして集団で非論理的なまでに過剰な攻撃をしてくることがある。そんな危険はおかせない。たとえたいした技術レベルじゃないにしても、いまはそんなのを相手にしていられる状態じゃない。
それはひときわ暗い場所にうずくまったまま、相手の出方を待った。
シゲヲが動かないのを見てとると(依然としてその姿は影にまぎれて判然としなかった)、菜美は、へたに動いて相手をおびえさせないように用心しながら、手をいっぱいに伸ばして、コンビニの袋を差し出した。といっても相手までは、抜け落ちた床を挟んで二十メートル近い距離がある。袋のなかにはさっきコンビニで買ってレンジで温めてもらった焼肉弁当と、ファンタのオレンジ味が入っていた。給食がない日の菜美の定番ランチだった。
「これ、食べるもの」
話しかけたつもりなのに、ひとりごとみたいな声にしかならなかった。こんなんじゃ聞こえるわけがない(そもそもそれが想像しているとおりのものならとうぜん考えておかなければならない言語の問題は、十歳の小学生の頭をかすめもしなかった)。
覚悟を決めて大声を出した。
「お腹すいてると思って!」
思いがけずその声はがらんどうの建屋内に響きわたり、だれよりも叫んだ本人をおびえさせた。
それは動かなかった。すでに無視することに決めていた。動かずにいれば、周囲の影と見わけがつかない――幼体ならではの未熟な知性がそこにいると思いこんでしまっただけの、マボロシの怪物で終われると期待していた。いっぽう菜美は、しばらく待ってもシゲヲが動かないのでほんのすこし大胆になった。コンビニのビニール袋を持ったまま、床の大穴を注意深く迂回してシゲヲに近づいた。といってもそんなに……たとえば手で触れられそうなところまで近づくつもりはなかった。そこまできていたら、さすがにほうっておいてはもらえなかっただろう。
穴のふちで足を止めて、菜美はこわごわと下をのぞきこんだ。深さは十メートルくらいだった。鉄骨で補強された穴のなかに、菜美は、いま相手にしているのと同じような影がうずくまっているのを見た。ただ大きさがちがっていた。それはトラックくらいの大きさで、あちこちから触覚か触手のようなものが突き出して、風もないのに揺れていた。小さな明かりが無数に――ちょうどさっきのシゲヲのまばたきのように――点滅していた。
奇妙な音が響いた。菜美は立ち止まった……金属がねじれるような、動物がうなるような音だった。シゲヲが警告しているようにも聞こえた。どっちみちそれいじょう近づくつもりはなかった。薄い胸のなかで心臓が跳ねるように動いているのを感じていたし、膝がどうしようもなく震えているのに気づいてもいた。
これいじょうあれに――シゲヲに――近づいたら、おそろしさのあまりまともにものを考えられなくなるだろう。シゲヲなんてまぬけな名前をつけてもなんの意味もない。菜美は悲鳴をあげはじめるだろう。悲鳴を止めることができなくなるだろう。そしてシゲヲは、やかましい目覚まし時計にするように、それをひと叩きで止めようとするだろう。
そうやって死ぬのだ。
かがんで、足元にビニール袋を置いた。いまとなってはそれでなにをしようとしたのかも、よくわからなくなっていた。
「ここに置いとくから。あとで好きなときに食べてね」
ここにいたってもまだすじのとおった(と、自分では思っている)ことをしゃべれるのが意外だった。菜美は顔を上げて目のまえにうずくまる影のかたまりを見つめた。シゲヲを見つめた。
「安心して。あなたのことはだれにもいわないから。でも、」
口ごもった。
「そのかわりにね、」
また口ごもった。どうしても言葉が出てこなかった。
そこがいちばん大切なところなのに。そのためにここにきたはずなのに。そのためにこんなおそろしい状況に耐えているのに。唇を噛みしめた。シゲヲは動かなかった。壁ぎわにうずくまる、ひときわ黒い影でしかなかった。
気がついたら叫んでいた。
「あの男を殺してほしいの!」
声は、崩れかけた大きな建屋のなかで、何度も跳ね返され、そのたびに大きく増幅されるように響きわたった。
自分の声にぞっとしながら、それだけじゃなんのことか通じるはずがないと気づいてもいた。
「あたしのパパのあの男を殺してほしいの!」
まだ足りない。
「隼人を殺した仕返しをしてほしいの! 隼人はあいつに殺されたの! 隼人はあたしの弟なの!」
すくなくとも、恐怖のあまりとちゅうで泣きだしてしまうことはなかった。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます