宇宙人シゲヲ

片瀬二郎

第1章 菜美はそれをシゲヲと名づけた

 通学路のとちゅうにある廃工場にそれはいた。大きかった。歩道橋の上から、工場の割れた窓越しに、コンクリートの床にうずくまる黒い影が見えた。不気味だった。雨が降る薄暗い午後には、トタン板で囲まれた敷地をうろつく姿を見ることもあった。おそろしかった。

 菜美はそれをシゲヲと名づけた。

 そう名づければすこしは親しみが持てるようになるだろうと期待してのことだったが(じっさい、真夜中、両親の不快ないびきを聞きながらそれのことを考えても、そんなにこわいと思わなかった)、いざ、歩道橋を降りて、いつもなら右に行くところを左に曲がり、人けのない路地に入ると、いうほど親しい感じはしなかった。この季節にしては陽射しが強く気温も高めだったというのに、ぞっとするような寒気を感じた。この短い路地の先にあるトタン板の塀の向こうにそれはいる。だれも見たことがなくて、知っているのは菜美だけで、菜美が知っていることをだれも信じてくれなかったとしても、それはそこにいる。まちがいなくいる。

 足がすくんで立ち止まってしまいそうになった。まるであのときの夜のようだった。あの夜、怒鳴り声、殴りつける音、泣きじゃくる段階を通りこして、おびえ、許してくださいと必死に懇願する声、さらに手ひどく殴りつける音、力まかせに蹴りつけられて台所の食器棚に叩きつけられ、食器ががしゃんと鳴る音、母親の叫び声、男の――再三、パパと呼べと要求する男の――ぞっとするほど冷静で、感情のまったくこもっていない声、そのすべてを耳に入れないように両手で押さえ、頭からふとんをひっかぶって寝たふりをしていたあの夜に。寝室に入ってきた男に、ほんとうは寝ていないのを気づかれてしまうんじゃないかと震えていたあの夜に。あのときの男の声はいまでも耳に残っている。まるで、ついさっき耳元でささやきかけられたばかりのように。

 急に静かになって、夜中のバラエティ番組の音がやけに大きく聞こえるようになった居間で、男はこういったのだ――ふざけてて滑って勝手に転んだことにしろ、こいつおっちょこちょいだから、だれも疑いやしねえよ、と。

 そんなことはなかった。おっちょこちょいなんかじゃなかった、弟の隼人は。ふざけて部屋じゅうを駆けまわるどころか、いつももの静かで、部屋でアニメを見るか、本を読んでばかりいる子だった。親に叱られるようなことなんてなにひとつしない子だった。すくなくとも激怒した親に、這いつくばって命乞いをしなければならないほどの悪さは。その命乞いを、つい半年まえに家族にくわわったばかりの新しいパパに聞き入れてもらえないほどの悪さは。

 路地の先はトタン板でふさがれて行き止まりになっていた。トタン板が斜めにずれて、十歳の子どもならどうにか通り抜けられるすきまができているのを菜美は知っていた。訂正。十歳の子ともじゃない。ちびでやせっぽちの十歳の子どもが正しい。保健の皆川先生に心配されているのは知っていた。菜美の顔を見るたびに(それが偶然なんかじゃなく、菜美のようすをたしかめるために、あえて会いにきているんだと気づいたのは、つい最近のことだった)、皆川先生は菜美に、ちゃんと食事しているかと訊いた。ちゃんと食べさせてもらっているかと訊くこともあった。夕食のメニューを、立ち話のちょっとした話題にしてはやけにしつこく聞き出そうとしたこともあった。皆川先生と話すときは、用心しなければならなかった。

 ランドセルを降ろすと、地面に膝をついて、トタン板のすきまにまずそれを押しこんだ。つぎにコンビニの袋、最後に菜美が、頭を先にして。

 去年まで、そこは理想的な遊び場だった。ほとんど毎日、学校の帰りに同じクラスの木口くんや細川さん、それにもちろん隼人といっしょに、この同じ場所からなかに忍びこんだものだった。だからそこがどうなっているかよく知っていた。歩道橋や近くのビルから、どこが見えてどこなら見えないかも。どの壁ならボールを投げてもよくて、どこなら音が大きく響いて忍びこんでいるのがばれてしまうかも。

 やがて細川さんが転校し、菜美と隼人のところにあいつ――あの男、自分のことをパパと呼べと、しつこく要求する男――がやってきて、すべてが変わった。菜美はなにも変わっていないつもりでいたのに、あのパパと呼べ男が木口くんの家に怒鳴りこんでしまい、廃工場での遊びはもちろん、そのほかのあらゆるものが、二度ともとに戻らないほど徹底的に壊されてしまった。おかげでいま、菜美にはいっしょに帰ってくれる友だちもいない。休み時間にいっしょに遊ぼうと誘われることもなければ、きのうのテレビのことで話しかけられることもない(話しかけられても菜美には答えることができない、あの恐怖の夜いらい、家に帰ると菜美は子ども部屋から食事とトイレいがいの理由で出ることも許されず、テレビなんかいっさい見せてもらえない)。菜美はひとりだった。一日がはじまってから終わるまで、またつぎの一日がはじまってから終わるまで、菜美はずっとひとりだった。

 依然としておそろしくはあったものの、立ち止まろうとはしなかった。菜美はひとりだった。たとえここで踵を返したとしても、逃げこむ場所はどこにもなかった。

 泥だらけのランドセルを背負いなおすと、コンビニの袋を拾い上げて、傾きかけた工場の建屋の、ぽっかりと開いた暗い入り口に向かった。どこにそれがいるかはわかっていた。それ……シゲヲが。


つづく

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