■ EX58 ■ 閑話:輝けブランド光の如く Ⅲ






「私の配下であるアレジア・フロックスがマロック子爵家三男、ヴェイン・マロックへと嫁ぐことになりました。既に婚約届けは王家に提出され、その了承を受けています」


 可憐な薔薇の唇を紅茶で湿らせたアーチェの第一声は、レンの指からティーカップを滑り落すに十分な重量を持っていた。

 絨毯の上にカップが落下し、しかし紅茶の染みは広がらない。レンのカップには一口で空になる程度の紅茶しか最初から注がれていなかったからだ。


 そうやって内心の驚愕を隠せないでいるレンの前に、アーチェの侍従メイが三枚ほどの便箋を並べてみせる。


「読みなさい」


 そう上位貴族から命令され、便箋を手に取ったレンは震える手をなんとか抑えてその内容を読み取っていく。

 何やら古い文献の写しなのか、口語では使われていない表現などが含まれていて読み解くのは困難を極めたが、


「アンティマスク伯爵令嬢、これは……」


 何とか内容を理解したレンの目に、知性と希望の輝きが戻ってきた。

 シャルトルーズ法。他家の婚約に待ったをかけられる法律がこのアルヴィオスに存在していたなどとは――だが、


「貴方は最下級とは言え国王より叙任を受けた騎士爵、シャルトルーズ法の原告になる権利があります。ですが原告が敗北すれば――読み取れていますね?」

「爵位と財産を――貴族としての全てを失います」

「その通り。ヴェイン・マロックを訴えるための瑕疵は此方で用意できますが――貴方、男爵令嬢を幸せにする力量はお有り?」


 その一言はまさしくも弓神より放たれた矢の如くに、レンの心臓へ深々と突き刺さった。

 努力した、はなんらの価値も持たない。レンが今日まで磨き続けた素質と、身につけた素養だけをアンティマスク伯爵令嬢は問うている。


「貴方に我が腹心たるアレジア・フロックスを幸せにする覚悟と知恵と力があるなら、このアーチェ・アンティマスクが全力で貴方を支援しましょう。さあ、貴方がアリーに与えられる全てを語りなさい、今、ここに」


 何ができるか。何を持っているか。何を与えられるか。

 レン・ブランドの全てがこの場で問われている。アーチェの視線はレンが己がアルヴィオス王国貴族社会に放つ嚆矢に足りるか否か、をこれ以上無く鋭く見定めている。


 ずっと考えていたこと。アルバートに指摘されてからずっと思い悩んでいたこと。

 自分にとっての幸せではなく、ではアレジア・フロックスにとっての幸福とは何なのか?


「俺の――いえ、私の実家は王都直轄地で製油業を営んでいて――絹のドレスや宝石には、流石に手は出ませんが――男爵令嬢が働かず、侍従を一人付けるぐらいの生活は、保証できるものと」

「続けなさい」


 アーチェ・アンティマスクが容赦なく続きを促す。まだ、駄目出しはされていない。だが良しとも言って貰えていない。

 当然だろう、飢えさせないは最低限の大前提だ。そんなことではなく、もっと幸福だとはっきり言えるようなそれは――


「王都に家を――買えるほどの財はありません。借家であれば、辛うじて。料理人は――実家から働き手を送って貰えれば。粗末な、食事にはなりますが」

「続けなさい」

「アレジア・フロックス男爵令嬢には、今と同じ環境を用意できます。御身の配下として引き続き働ける環境を」


 アレジアの望みは恐らくそれだろう、とレンは結論づけていた。というか、アレジアを見ていればよく分かる。

 あの、憧憬と尊敬に満ちあふれたアレジアの小豆色の瞳は、ただアーチェだけにのみ向けられているから。


 緑色の瞳を持つ蛇がもたげる鎌首を意思の力でねじ伏せて、レンが自分の用意できる全てをそう告げると、


「続けなさい」


 それでもまだ足りない、とアーチェが更なる先を促してきて、しかしレンがアレジアのために用立てできるのはそれが限界だ。

 膝の上にある拳を握り、項垂れるレンを前に、


「それで終わり? それじゃあ話にならないわ」


 アーチェが冷やかにピシャリと吐き捨てて、頭に血が登り激昂しそうになる。

 ほかに、この騎士爵にこれ以上何を求めるというのだ! 上位貴族が上から目線で!

 命を、心臓でも捧げれば満足してくれるのか!? この心臓をえぐり出して掲げればアレジアが手に入るというなら、このレン・ブランドは迷わずそうするだろうに!


「本当に、貴方がアリーに捧げられる全てを本当に語り終えた? 違うでしょう? まだ貴方はもっとも大事なことを口にしていない」


 金も、名誉も全て吐き出して、これ以上何を、と内心で繰り返したレンは気が付いた。確かにまだ一つ、言っていないことがある。

 だがそれを、理屈と合理を重んじるアンティマスク伯爵家に語る意味があるのか、まで思考して、レンは思い出した。アーチェ・アンティマスクの二つ名を。





「この世の誰よりも――アレジア・フロックス男爵令嬢を大切に――愛し、お慕い申し上げております。彼女の幸せを願う心は、御身にすら負けるつもりはありません」




「よろしい。実に結構」





 アーチェが朗らかに笑った。いつもの仮面の笑顔ではない、あの写真展で見た、つい写真も買ってしまった、あの特別であって自然な笑顔をレンに向けてくる。

 そうして、始めてレン・ブランドは知ったのだ。貴族社会で幼少より徹底してその価値を高めるべく研鑽を積んできたこの少女は本来、こんな風に笑う女の子だったのだ、と。


 レンの前にメイが新たな書類とペンを差し出してくる。


「サインしなさい。法手続きは此方で進めます。恐らく決闘までもつれ込むでしょうから、心身を整えておきなさい。とは言え事前の闇討ちの懸念は、うん。貴方たちの実力なら何とかできるでしょうから、注意すべきは服毒ね」


 そう告げられて――これまで死に物狂いで磨いてきたレンの武技だけはアーチェも認めてくれているのだと分かって、自然と胸が満たされていく。

 この努力だけは、無駄にならなかったのだ、と。


「畏まりました。警戒を密にします」

「ええ。当日下痢ピーで腹に力が入りません、なんて許せないわよ。分かってるわよね?」


 伯爵令嬢とは思えぬ下品な話にレンは思わず笑みを零し、アーチェがそれを見てニコリと笑う。背後の侍従メイはそんな二人を睨んでいたが。


「勝ちに行くわよ、レン・ブランド――というわけでアリーへの告白の言葉を考えましょうか。貴族らしい言い回しのね」

「い、今、ここでですか!?」


 青くなるレンの前にメイが新しいカップと紅茶を用意してくれる傍ら、アーチェが手ずから脇に置いていた本をドン、と茶卓に積み上げる。


「あら、自分一人で考える? できるっていうならそれでもいいけど」

「……できません」

「貴方のそういう素直なところは嫌いじゃないわ。じゃ、始めましょ?」


 そうやってアーチェに採点されながら必死にレンは告白の台詞を考えたわけだが――勝利後の告白時にはそれらは綺麗さっぱり頭の中からすっ飛んでしまっていた。


 ただ、残っているものも確かにあって。

 例えば今、闘技場の控え室でレンの腕を取るアレジアの手の温もりとか。


「後日、フロックス家に婚約の証を携えてご挨拶に参ります。受け取って頂ければ幸いです」


 レンがそう、なけなしの知性を振り絞ってアレジアにそう語れば、勿論ですと微笑み返してくれて、これだけでこれまでの苦労の全てが報われたような気がした。

 そんなレンを前に、アレジアが腰を折って、


「此度は私のために全てを擲って頂けたこと、感謝の念に絶えません。不束者ではございますが、末永く宜しくお願いいたします」

「こ、此方こそ宜しくお願いします!」


 つられるようにレンもまた頭を垂れるのは、端から見ているストラムからすれば「何やってんだこいつら」とちょっと呆れてしまう有様だが。

 何にせよ、レン・ブランドの閃光のような日々はここで終わったのだ。


 これから先、レンがその名の如く温かく周囲を照らしていける炬火ブランドのように生きていけるかは、神のみぞ知るといったところであろう。







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