■ EX43 ■ 閑話 それぞれの悩み ミーニアル家 Ⅱ
ミーニアル家の泥沼を避けるかように、カティは話題を切り替える。
「まあ、いいじゃないですかお嬢様。オペラなんて所詮は娯楽ですよ。深く考えずに観劇して、感激したふりしておけば」
「そういうわけにもいかないのはあんたも知ってるでしょ」
アーチェから渡されたのはペアチケットだ。無論カティの分ではない。侍従は主の手足なのでチケット無しで観劇できる。
「私たちはこれ見て、宣伝文を新聞に乗せなきゃいけないんだから」
大人の夜会で写真撮影なんぞをしているアーチェにはダンス関係の知己が多く、今回のチケットもそこで手に入れたものだ。
ミスティが学園で新聞を作っていることは大人の社交界でもある程度話題になっていて、だからアーチェに宣伝依頼が飛び込んできて、しかし、
「公平公正が新聞部のモットーですので忖度はいたしません。私以外に記事を書かせますが宜しいですね?」
「勿論よアンティマスク伯爵令嬢、忖度などされては芸術家としてこれ以上の恥などありませんもの」
という会話が交わされたらしく、アーチェではなくシーラがこのお役目を任されたのだ。とは言えシーラの芸術センスを信じるなどという愚を、あの聡明なアーチェが犯すはずもなく、それ故のペアチケットだ。
要するに、
「不足を補え、と言われながらも結局お嬢様は一人でこんなところまで来てしまうのでした」
「……仕方ないじゃない。伝手なんてないし」
そう、シーラ・ミーニアルは実に可愛げのない女なので、ミスティ陣営から一歩出ると途端に知り合いがいなくなるのだ。
そんなシーラも、主であるミスティが苦労しながらも自ら配下を選んだように、不足を補う努力をしろ、とアーチェは言っているのだ。あるいは未だ婚約者がいないシーラを慮ったか。アーチェの画策はどちら――いや、その両方か。
いずれにせよシーラ・ミーニアルはペアでの観劇をアーチェに求められていて、しかしシーラは一人で開催当日の王立歌劇場前まで来てしまった。しかも全席予約のだ。
一人で観劇をしちゃいけないわけではない。だが一人で見たら新聞に載せる記事は自分で書かねばならない。しかし肝心のシーラにはそういう芸術面でのセンスが完全に欠けている。その駄目っぷりはアーチェといい勝負か、むしろ劣るほどだ。
「その伝手をなんとかしろとお嬢様は言われているのでは?」
「……分かってるわよ、頭では」
シーラ・ミーニアルはどうしようもない仕事の虫なのだ。シーラに比べればアーチェですらよほど遊び歩いていると言えるレベルで、本当にミスティ陣営のことしかこの七年間、考えてこなかった。
アーチェはそれに釘を刺してきたわけで、要するにあいつ、
「こう言っちゃなんですけど、アンティマスク伯爵令嬢ってミスティ陣営のお母さんみたいですよね」
「……」
沈黙を以てシーラはカティの言に同意した。偶然ではあるが、シーラもまたアーチェやミスティ同様、既に母親を亡くした子だ。
だがアーチェやミスティよりは母親を失うのが遅かったため、母の愛情がどういうものかをそれなりに覚えている。
アーチェから向けられる感情、即ち親愛と尊敬と尊重が母のそれと極めて酷似しているのは――本当に何なのだろう?
その経験から、恐らくシーラ・ミーニアルという少女の成長と栄達をこの世でもっとも喜ばしく思っているのはアーチェ・アンティマスクに違いない、とシーラも何となく気が付いている。
シーラの才能を認め、学園教師から授業ではなく研究室で教えを受ける、という貴重な場に同席させてくれてもいる。
そのおかげでシーラは並の生徒では視野にすら入らないような様々な専門知識に触れることができている。
そしてそれらを理解し習得し意見を述べると、アーチェはいっそシーラの方が聞いていて恥ずかしくなるくらいに手放しでシーラを褒めちぎる。
最初は嫌味かと思ったが、本心からだと分かってからは腹をたてるのも馬鹿らしくなったし――そんなアーチェに救われている自分にもシーラは気が付いている。
シーラ・ミーニアルの存在を誰よりも、ミスティよりも認めて頼りにしているのがアーチェ・アンティマスクであるのだと。
シーラの幸せを今現在のこの世で一番願ってくれている者の名を上げろ、と問われれば、それは父やカティを越えてアーチェ・アンティマスクだ、とシーラは答えるだろうと。
シーラの努力を褒め称え、成長を我が事以上に喜び、しかもそれが自然で嫌味がない。まさに母親の視点だ。
ここまでシーラが鬱屈せず、強大なオウラン陣営に怯えも竦みもせず真っ直ぐに育ったのは疑いなくアーチェが相方だったからだと、もうシーラははっきり理解している。
本当にこれでオウランに太刀打ちできるのか、無様に潰されやしないかと不安に駆られるがままに隣を見れば、いつだって平然としたアーチェ・アンティマスクがそこにいる。
その悠然として気負いも恐怖も焦燥も諦観もない、余裕に満ちた表情の
そしてそれはシーラのみならずミスティも、プレシアも、アレジアもフィリーも皆同じなのだ。
皆、アーチェにだけは失望されたくないと、そういう思いで働いている。アーチェ・アンティマスクは無条件で自分たちを信頼し、その成長を誰よりも喜んでくれるから。
そしてそのアーチェが何よりも喜ぶのが、自分を踏み越えて行くことだなんて――こんな奴。まるで母親のようだ、以外に何と言えばいいのだろうか。
とは言え、
「これはアーチェにごめんなさいかしらね」
シーラはその期待に応えられずに一人で歌劇場に来てしまったわけで、と?
「ですので、幾ら金貨を積まれましても本日の上演は完全予約制でして……」
「そんな……せっかく遠方から遥々やって来ましたのに……」
どうやら歌劇場入口で一人の少女が膝をついて、この世の終わりのような哀愁を背中に乗せて項垂れている。
はて、どこの子だろうとシーラは首を傾げた。血のように真っ赤な髪を腰まで伸ばし、顔を薄いヴェールで隠している十代半ばらしき少女は――学園生徒ならばあの艷やかな髪は目立つだろうが、シーラはあんな子は学園では見たことがない。
では低身長なだけで、もう成人済みのレディか。少なくとも貴族街にいるのだからアルヴィオス王国貴族には違いない、とまでシーラは考えて、そして閃いた。
「宜しければ一緒に観劇します?」
そうシーラが手を差し伸べると、
「宜しいのですか!?」
赤毛の少女がヴェールの裏でパッと笑顔を花開いてシーラの手を握りしめてくる。
その身振りでシーラは気が付いてしまった。この娘、あまり身分は高くないな、と。
侍従も連れていないし、自ら動くことに一切抵抗がないのは身分の低いもの特有の振る舞いだが……容姿のほうはかなり端麗だし着ている服も上等だ。
複雑な色合いを持つ、滑らかな絹にも似た光沢の布地をこれまで一度もシーラは見たことがない。上等、というか最上の素材だろう。
肌も全く日焼けしていない病的な白さで、一歩も日光の下に出ないような生活を普段していなければこうはなるまい。そしてそれは絶対に庶民にはできない暮らしだ。
――若いけど、どこかの裕福な貴族の妾、とか?
少なくとも世間知らずであるのは間違いないが、これはシーラにとってチャンスでもある。
「ええ、相方が急に来れなくなってしまったので。終劇まで静かに観劇して、帰り道で感想を聞かせて頂けるならば、ご一緒に」
「勿論ですわ!」
この食いつきぶりだ、そこまで観劇したかったのなら、かなりよい感想を聞かせてくれるだろう。
そうしてシーラは年上と思しき少女を立たせて、
(お嬢様、大丈夫ですか? 見ず知らずの方ですよ?)
(歌劇場内じゃあ何もできないでしょ)
(それはまあ、そうですが……私知りませんよ)
(心配しなくても貴方に責任取らせたりなんかしないわよ)
カティを黙らせ入口の受付員にペアチケットを提示すると、隣の受付役が名簿一覧を視線で一舐めし、
「ご予約のシーラ・ミーニアル伯爵令嬢ですね。二階右側のボックス席三番になります」
講演内容が記されたパンフレットを渡され、誘導に従いシーラたちは二階のボックス席へと移動する。
側を歩く赤毛の少女はお上りさん丸出し、あちこちを見回してはヴェールの裏で目を輝かせているもので、そこまで喜んで貰えるなら誘ったかいもあるというものだ。
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