■ EX39 ■ 閑話 それぞれの悩み:フロックス家 Ⅳ
「ほら、着替えて日常生活に戻ろう。アーチェ様のお役に立つんでしょ?」
「……そうね、普通じゃなくなったのは事実だもの。やれるだけやってみましょ」
そうしてアレジアはクローゼットへ手を伸ばすが、残念なことにどのドレスも触感でしか形状が掴めない。
もっともアレジアは几帳面な性格だったので、一度着た服は常に同じ位置に戻すよう使用人に指示している。それが幸いして服を選ぶことには困らなかったが、ストラムに手伝って貰ってなお見えない服を着るというのは中々に難しい。
構造は、分かっているはずなのに。
ストラムに手を引いて貰い、朝食の場に訪れた時点でもアレジアの不幸は続く。
「どうした? アリー。妙にぎこちないようだが」
普段は何も言わないのに、こういう時だけアレジアの違和感に気が付く父親が今は少し憎らしく感じる。
「いえ、少し目の調子がおかしくて。ストラムに付いていて貰うので大丈夫です」
「悪くなるようならフェリトリー嬢に治して貰えよ。お前の特権だろ?」
「ええ、そうですねお兄様、そうします」
座る場所が決まっているのでどっちが兄でどっちが父かは分かるが、外見では見分けが付かない。
ただ兄は濃霧のようなガス状物質の集まりで、父は積み木のような見た目なのだとは理解できたが。
食事に関しては、何故かカトラリーは把握できた。だが肝心の食材が全くアレジアの記憶と形状も色も一致せず苦労させられた。
素材も、調理方法も不明の物体をストラムに説明して貰いながら口に運ぶのは、特に汁気やソースがかかった物は中々面倒である。
緑色をしたオムレツや紫色のパン(それらも外見がこれまでとは一線を画す)などはアレジアの食欲をこれでもかと削ってくれて、食事をするだけで気が滅入ってくる。
「では、行って参ります」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
身支度を済ませてストラムに手を引いてもらい学園へ通えば、そこから先はもう、
「……帰りたい」
「ま、まだ一日目じゃない。諦めるのはまだ早いって!」
総勢一万人からなる、一万の出鱈目な人っぽい輪郭をした謎の物体がずらりで、その誰が誰かも分からないときている。
「ごきげんよう、フロックス男爵令嬢」
「え、ええ、ごきげんよう」
誰か知り合いに挨拶をされたようだが、それが誰かがパッと分からない。声も聞いたことはあるし、多分会ったことある誰かの筈なのだが……
講義が始まると更に状況は困難になった。
板書が読めない。ノートに字が書けない。いや、書くことはできるが書いた字が読めない。いや、感覚として書けているだけで、本当に書けているかも怪しいものだ。
その事実を知った途端にアレジアの呼吸が乱れる。字の下手さを笑われたのはアレジアにとっては悔し涙が滲むほどに耐え難い過去の屈辱だ。
そして目の見えない自分が今書いている文字を見られたら笑われるのではないかという恐怖が、アレジアのペンを持つ手を止める。
「フロックス男爵令嬢、ちゃんと話を聞いていますか」
「……はい、勿論です」
松ぼっくりのような形状をした教師に質問された時には焦ったが、
「確かに聞いていたようですね。ですが聞いていたならそれらしい顔でいるように。淑女の嗜み以前に不要な諍いの元ですよ」
「はい、申し訳ありませんでした」
幸い耳での受講には傾注していたため、無事質問に回答できて事なきは得た。だがこれは偶然な例に過ぎない。
ここ最近の昼休みは陣営中核が一堂に会する機会も少なく、というより予定通りアーチェとシーラがミスティ裁量強化のためにわざと距離を取っているため、アレジアはミスティと共にミスティを誘う面々との会食である。
これがまだ最近の知り合いばかりということもあり、声だけでは誰が誰かをまだはっきりと頭に思い描けず、
「どうしたのアレジア。今日は少しぼーっとしているようだけど」
ミスティにあっさり見抜かれ、気を使われるのはアレジアにとって息苦しい。
ミスティを支えることと、センスを磨くこと。この二つをアーチェから求められているのに、今のアレジアはそのどちらもできないどころかミスティの足を引っ張るだけだ。
「す、すみません。ちょっと朝から目の調子が悪いみたいで、目が霞んで」
「そう……悪くなるようなら早めにプレシアに見て貰ってね」
ミスティが軽い口調でそう流して終わりなのは配下に聖属性持ちのプレシアを抱えるが故で、決して冷酷だからではないのだが――困ったことにこの視界はプレシアの聖属性では手の打ちようがない。
今は黒く艶やかな反物の束みたいに見えるミスティに曖昧な笑みを返すのがアレジアには精一杯である。
唯一の心の支えは放課後、部室にてアーチェと会えること。
それだけを心の支えにして一日の授業を乗り切ったアレジアを待ち構えていたのは、
「あらアリー、随分ストラムと仲良くなったのね。いいことだわ」
鮮血を内側からドボドボと溢れさせている鈍色の錆びた
そんな異形にからかうような声をかけられて、アレジアの心はぽっきりと折れた。
思わず腕に嵌めたお揃いのブレスレットへと手を伸ばす。どうやら金属製のものだけはアレジアの視界にも正常に映るようで、お揃いの安物の腕輪は、はっきりと視認できている。
目の前の棘の固まりは、確かにそれを付けていてくれていて。その事実がこの上なくアレジアには苦痛で、悔しい。
これがアーチェなのだ。昨日会ったアーチェの姿とこのアーチェの姿が同一のものだとはとてもアレジアは信じたくなかった。
「? アリー、どこか具合でも悪いの?」
そう僅かに離散を始めた
「いえ、なんでも、ないんです。ちょっと体調がよくないかな、ぐらいで」
自分はどれだけ分の悪い賭けに軽々しく手を伸ばしてしまった間抜けなのか。アレジアにはもうそれしか考えられない。
アーチェに会えれば大丈夫だと思っていた。声を聞ければ元気が出ると思っていた。
しかし、蓋を開けてみればアーチェがアーチェに見えないという事実は、想像以上にアレジアの平常心を千々に切り裂いてしまった。
動く度に自らの身を削って血を流しているような、あんな鋭い棘の塊なんかを目にして、心が癒えるはずもない。
もう二度とあの快活なアーチェの顔が見られないのだと思うと、完全にアレジアはこれから生きていく
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