■ EX39 ■ 閑話 それぞれの悩み:フロックス家 Ⅲ






 そうして、翌朝目覚めたアレジアは見事自分の目がおかしくなってしまったのだと直感的に覚った。


「なに……この景色」


 自分の視界に映っているものが理解できない。普通に考えて、ベッドの上で目を開けたのだからアレジアの目の前にあるのは部屋の天井の筈だ。

 だがそこにあるのは――どう説明すればいいのか。無数の砂粒がサラサラと複雑怪奇な流れを模す――あえて言うなら流砂が近かろう。

 身を起こして自分の掌に視線を落とすも、


「私の、手。これが?」


 視界に映るのは合計十本の指ではない。あえて言うなら常時形状が変化し続ける四次元立体の集合体だ。

 掌を握ったり開いたりしてもそれらは自分の動きに連動することはない。開ききった時とギュッと握った時にはある程度の法則性を見いだすことはできたが――身体の動きと連動していないことにアレジアは大きな衝撃を受けた。

 要するに、今の自分には人の姿勢どころか物の動きすらマトモに掴めないということなのだから。


「おはよう。目の調子はどう?」


 傍らからいきなり声をかけられてビクリとしたアレジアは、そういえば昨晩は一緒に寝たのだったとストラムの存在を思い出した。

 声がした方を振り向けば、


「ストラム、で、いいのよね?」


 目の前にいるのは、これを何と評するべきか。あえて言うなら、球体を紐で繋げてらせん状に組み上げた棒状物質で四肢と胴体、頭を構築した何かだ。

 しかも時折その身体を構築する球体がふわりと離れたり浮かんだりまた戻ったりして、とても一つの生命体とは思いがたい挙動を繰り返している。

 更によくよく見れば隣にいるアレジアの身体にまでストラムがめり込んで――いや、逆だ。ストラムの身体にアレジアがめり込んでいると言った方が大きさ的には正しいだろう。


「ん、失明はしてないみたいね。特別な視界を得た感想はどう?」

「特別なら何でもいいってもんじゃない、ってよく分かったわ。貴方たちにはこんなふうに世界が見えているの?」

「多分違う」

「え?」


 ストラム曰く、今のアレジアの肉体、より正確に言えば眼球には竜の知覚能力の一部が備わっているが、あくまでアレジアは人であって竜ではないから同じにはなり得ないらしい。


「生物には物質面と精神アストラル面の二種類の身体があるんだけど、この二つは同じじゃないと正しく機能しないんだってさ」


 だから物質的に竜の肉体を得たアレジアは今、物質面と精神アストラル面が食い違った状態にあるということだ。

 端的に言えば竜の視界が得た情報をアレジアは正確に処理することができていない。暗号を解読するのに誤った暗号キーを使用しているようなものだ。


「失明はその二つが徹底的に噛み合っていない状況、発狂する方は一部が微妙に噛み合っている状況ってことだと思う」


 物質面と精神アストラル面がちぐはぐなりに多少なりとも噛み合っているから、今アレジアには奇妙ではあれど視界が存在する、ということらしい。

 ただ、


「……これは、私も発狂自殺の仲間入りね」


 アレジアはそう嘆息せざるを得ない。

 これは、この光景は慣れろと言われて慣れられるものではない。

 あまりに奇っ怪で、憂鬱で、極彩色で、温もりや暖かさが感じられない。枕元に置いてあった手鏡を手に取ってしまったことを後悔するほどの絶望。

 鑑の中のアレジアもまた、常に形を変え続ける立方体の集合体でしかなかった。微妙に人の輪郭を維持しているのがおぞましさに拍車をかける。


「え、失明してないんなら頑張ろうよ」


 ストラムは困ったようにそう言うが、アレジアとしては己には見ることもできない乾いた笑みしか浮かべられない。


 これは精神的な拷問だ、とアレジアは理解した。

 全く耐えきれないというわけではない。一日ぐらいなら目新しさもあるから平気だろう。一週間は大丈夫かもしれない。


 だけどこの光景が永遠に、生きている限り続くのだと覚ってしまった瞬間に、もう歯止めがきかなくなるのだ。

 死ぬ以外にこの歪んだ世界から抜け出す術はないと、そう追い詰められてしまうこれは心を病む拷問なのだ。


「一つ言っておくけど、見えてるってことは一部が噛み合ってるってことなんだ」


 アレジアの表情がアレジア自身には見えなくてもストラムには一目瞭然なせいか、おずおずとストラムがフォローを差し挟んでくる。


「貴方の見ているものは偽物とかじゃなくて世界の在り方の一部だってことなの。それに絶望するのはおかしいんだ」

「冗談を言わないで、世界がこんな様であるはず無いじゃない」


 アレジアとしては呆然と首を振るしかない。ストラムの輪郭がふいに激しく分離集合の渦を巻き始めるこれが世界の在り方の一部だとでも?


「それはそう。これまで精神アストラル界を見られなかったんだから、それが見えるようになればこの世のもの・・・・・・に見えないのは当たり前」

「……ああ、そういうことね」


 ストラムの言わんとすることがアレジアにもようやく分かった。普通には見えないものを見ようとして、中途半端に見えるようになったのがアレジアのこの状態なのだ。

 言わばモザイクがかかった画像を見ているようなものだ。滅茶苦茶だが出鱈目ではない、見えているものの全てが嘘というわけではないのだ。


「これが……世界の側面、私たちの本質の一端だっていうのは……あ」


 唐突にアレジアは自分が何故ストラムの身体にめり込んでいるように見えるのか、その理由に気が付いた。

 この視界ではストラムは竜の時の大きさに見えているのだ。だから人型を取って隣にいると、自分がストラムにめり込んでいるように見えるのだろう。


「でもそれなら元の視界も残しておいて欲しかったわ」

「それは仕方ない。本来竜は精神アストラル界寄りの生き物だから」


 要するに、チャネルが合っていない竜の目はアレジアの制御下にあらず、故に精神アストラル界のみを見る視界のみが初期設定とされて動いているのだろう。

 視界だけが別の世界へと繋がってしまったのだ。それ以外の感覚は元のままであるというのに。


「ほら、着替えて日常生活に戻ろう。アーチェ様のお役に立つんでしょ?」

「……そうね、普通じゃなくなったのは事実だもの。やれるだけやってみましょ」






 

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