■ EX34 ■ 閑話:アノン Ⅱ






 左手に意図的に魔力を集めると、ポウと淡い光が人差し指へと灯る。そんな魔力の光を人差し指から中指へ、指の輪郭を滑るように移動させてみせる。

 やれることは他にない。ただ時間だけはたっぷりある。


 だからそう魔王国食糧民アノンが毎日飽きもせずにその作業を繰り返していると、


「全員整列、ついてこい」


 いつもの呼び声がかかり、ほんの僅かな時間の間で見目を少しでも良くしようと、女たちが手櫛で髪を整えながら移動を始める。

 そうしていつものように並んだアノンは僅かに首を傾げた。今回の客を、アノンは見たことがある。


 どうやらそれに気が付いたのはアノンだけではなかったようで、周囲に嘲笑にも似た空気が漂い始める。

 あれだ、あの青年は小生意気で顔の整っていたクソガキを買っていった男だ。

 あの男が近々でまた食糧民を必要としている、ということは即ち、あの生意気だったガキがもう用済みになったということだからだ。


 ただアノンはアノンで一人、別のことを考える。


――先ずは吸血鬼個人の餌にならないと手も足も出ないわね。一度そうなれば後は創意工夫。なんとかして外の寒さに耐えきれるだけの服と数日分の食料を用意して、太陽が登る方と沈む方の中間目指してひたすら歩く。運が良ければそれでアルヴィオス王国につけるわ。


 あの娘は、国へ帰ることを諦めていなかった。ならば本当にあいつは、アルヴィオス王国とやらに帰ったのだろうか?

 そんなことを考えていると、


「そこの子、そのそっぽ向いてる奴。味見から頼む」


 どうやら呼ばれたのは己らしい、とアノンは気が付いて、驚きのままに看守に腕を取られて背後に回され、客の前で拘束される。

 そんなアノンの指先に男が牙を突き立てて――


「あ、思ったより悪くない。この子でいいや」

「畏まりました。では売却の準備を致しますので少々お待ち下さい。お前、身なりを整えてこれに着替えてこい」


 新品のブラウスとスラックスに革靴を渡されて、アノンはどうしていいか分からずに固まってしまった。

 まさか自分がここから出ていく日が来るとは思いもしなかったのだ。


「どうした、早く着替えてこい。グズグズするな!」

「はっ、ハイ」


 慌てて集合畜舎に戻り、胸に抱えていた服へ改めて視線を落とすと、そっと顔がほころんでいくのがアノンにも分かる。


 無駄じゃなかった。

 あの顔面変形女に言われて毎日やっていたことは無駄ではなかったのだ。


 努力をすること。

 それが報われるということを初めてアノンは体験したのだ。


 なら、ここから先はアノンはどうすればいい?


――もし私がここを出られたら、貴方も私を追ってここを出る努力をしなさい。もし無事に私のいるアルヴィオス王国アンティマスク領まで辿り着けたら貴方に一生食うに困らない立場をあげる。


 決まっている。

 アノンは賭けをしているのだ。


――悪いわね、先に行くわ。その気があるなら賭けにのんなさい。伸るも反るも貴方の自由よ。


 あいつは先に行った。

 なら、アノンだって同じように先に行けるはずだ。


 だからアノンは貫頭衣を脱ぎ捨てて、新品のブラウスに手を伸ばしたところで――


「げぇっ――」

「どうして……あいつといいお前といい……幼稚で生意気なクソガキばかりが……ここから、出て行けて……!」


 同じ畜舎の、四十路頃と思われる血液袋に両手で首を絞められて、アノンは床に押さえつけられた。

 助けを求めるように視線を巡らせて――しかしそんなアノンの視線に応えるものは誰一人としていない。誰もが、見て見ぬ振りをしている。

 未来が、出口が、希望が、もうアノンの目の前にあるのに――


「わ……わた、し……は…………」


 もがいてももがいても、体格差があり、アーチェのように格闘護衛術も修めていないアノンにはどうしようもない。

 ただ思い切りその女の腕に爪を立てて引っ掻くが、それは何らの抵抗にもならないようだった。


「お前など、お前など死んで、死んでしまえばいい…………っ!」


 死にたくない、とアノンは全力で抗った。アーチェと会う前のアノンだったら、そんなことはしなかっただろう。

 だが、今のアノンは外の世界という存在を知ってしまった。人が人の意思で生きられる世界を知ってしまった。

 なのに今死んだら、本当に何のために生まれてきたか分からなくなってしまう。ただ血鬼ヴァンプ族の餌になるためだけに生まれてきたことになってしまう。


 そんな、そんな人生はいやだ。耐えられない。ようやく、わずかとは言え希望が見えたのだ。

 希望に繋がる道が拓けたのにこんな、こんなところで理不尽な暴力に全てを奪われるなんて――


「帰……ここ……違……」


 ゴキリ、という首の骨の折れる音がアノンの耳朶を叩き、


「行く…………アン、テ…………」


 そしてアノンの腕がダランと床に落ちてようやく、


「貴様! 何をやっている!」


 看守が異常事態に気が付いてやってきたが、全ては後の祭りだ。


「どけ! ……チッ、これはもう駄目だ。おのれぇ、商談が成立した商品を駄目にしおって! この血液袋めがぁ!! 客に詫びる此方の身にもなってみろ!」

「ヒィ、お許しを! おゆるしおぉっ!!」


 悲鳴を上げる四十路女が、此方もまた死ぬのではないか、という勢いで看守に鞭打たれる横で、


――幸………な、る……


 そんな、誰の耳にも届くことのない呟きを最後に、アノンの命はふつと途絶え――


 底なしの深い深いぽっかり空いた闇の底へと、アノンの意識は吸い込まれ、そして消えていった。




――――――――――――――――




「大変申し訳ありませんお客様、血液袋の一部が急に暴れ出し、先ほどの商品は売却不可能な状態になってしまいまして。すみませんが代わりを選んでいただけないでしょうか」

「ちょ……ここ食糧民の教育ちゃんとやってるの? 安全性に問題があったりしない?」


 そう看守に告げられたカワードは背筋が寒くなった。

 いきなりアイシャに腕を取られ床に押しつけられた事実が頭の中にフィードバックしたのだ。


 もしかしてここの食糧民はみな狂暴なんじゃないか、と急に不安が胸中で掻き鳴らされる。


「あー、いいよ。じゃあ今日は出直すことにする」

「大変申し訳ありません、またのお越しをお待ちしております」


 深々と腰を折る折衝担当の看守に背を向けて、カワードは食糧飼育所を後にする。


「むー、焦らず狩猟部隊が帰還するのを待った方がいいかなぁ。新しく捕まった貴族とやらが並ぶかもしれないし」


 実際のところ、アーチェがあの食糧飼育所に並んだのは一種の偶然、調査を怠った士民の怠慢であり、あのような偶然はそうそう起きないのだが。

 それを知らないカワードは食糧民の購入を狩猟部隊帰還後まで待つことに決めた。


 アノンの身に何が起こったかまでは、カワードの耳に正しく届くことはない。

 それはカワードの生活にとって必要な情報などではないのだから。







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