■ EX35 ■ 閑話:ニール・インジャード






 此度の狩猟出撃における最終調整をニンファ・プルアリアントと確認した後、ニール・インジャードは第十圏キムラヌートにある自宅へ帰宅する。

 ニールの家は、まだ年若い一闘士民であるということを除いても随分と控えめの一軒家だ。


 無論、貴族街に相当する第十圏キムラヌートであるために、それは横穴を掘って廊下と部屋を作っただけの横穴式庶民住居とは一線を画する。

 シャフトの側面を大きく切り開いて庭を備えた二階建て家屋は、この地底国家では至上の贅沢と言っても良いものだ。


 自宅の扉を開き、ニールは簡単に食事と入浴を済ませて睡眠を取る。

 インジャード邸には使用人はいない。一闘士民なら四闘士民以下の家事手伝いを雇うのが一般的ではあるが、ニールは全ての家事を自分でやっている――否、全てではないか。


 翌朝、目を覚ましたニールが着替えを終え、自室からダイニングへと移動すると、


「珍しいですね、父上」


 父親がニールの言葉通り珍しく厨房に立って、病人食のような粥が満ちた鍋をかき回している。


「うむ、うむ、今日は調子が良いようなのでな」


 剛鬼フィーンド族の父親が相好を崩して、コップというか試験管のような管にその粥のような食事を移す。

 そんな様子をニールは冷めたような顔で見やって、父親がいそいそと去った厨房に向かい、鍋から自分用の皿にその中身を移す。


 一口、匙で掬って味見をしてみる。

 肉と野菜、茸の出汁が利いたそれは味も栄養も申し分ない、しかし一切歯ごたえのないどろどろのスープである。

 相変らずだな、とニールは溜息を吐いて食卓へ移動し、パンをそれに浸して囓りながら食事を終える。


 ニールが洗い物を終えると父親もまた食卓へと戻ってきて、自らもまたどこかしら作業のように食事を始めた。

 その所作には生気はなく、まるで人形が動いているような印象を受けるのはニールだけなのだろうか?


「一闘士民の義務により、血鬼ヴァンプ族の食糧調達のためアルヴィオス王国に攻め込みます。よっておよそ一ヶ月ほど私は家を留守にします」

「そうか」


 父親の返事はたった三文字、たった三文字で終わる。

 たかだか四闘士民の父親が、一闘士民にまで上り詰めたニールに対してかける言葉がそれだ。タカと生まれた子にトンビのかける言葉がそれだ。


 劣等感なら、まだ分からなくもない。自分より遙かに優秀な息子に嫉妬心を覚えるのは、大人げなくはあろうがおかしな話ではない。

 だがそうじゃない。ニールの父は、ニールに対して一切の関心がないのだ。ディアブロス王国にたった十三人しかいない一闘士民の地位を得た、出藍の誉れにだ。


 生まれてからこの方、ニールは父親に褒められたことなど一度もない。

 母親はニールが幼い頃に死んで、それからずっと三人で暮らしているが、ニールの父がニールを見たことなどこれまで一度もありはしなかった。


「……父上、私はこれから初陣に臨むのですが」

「そうか」


 仮にも戦場へと向かう息子に対して、父は何か問題でもあるのか? という顔すら浮かべず、黙々と食事を続けている。

 興味も、感心も、それこそ会話をすることすら無駄としか思っていない顔。いや、ニールを空気とすら思っている顔だ。


「――そんなにただ生きているだけの人形が大事ですか」


 だから、ニールは言ってやった。

 年若くして一闘士民となったニールとて人の子だ。ただの若い角鬼イーヴル族の有象無象だ。肉親に対する情もあるし、それが裏返った怒りもある。


 ニールの言葉に、父親がぴたりと匙を止める。


「国を裏切ってまで、もはや自分では指先一つ動かせない子の介護にその身を費やすことがそんなに大事ですか」

「ニール! このディアブロスに仇なす愚か者が!」


 突如としていきり立った父親が投げつけてきた皿を、ニールはあえて避けなかった。

 角に皿が当たりスープがニールの顔面にぶちまけられたが、ニールは微動だにせずただ憤るだけの道化となった父親を傲然と見下ろしている。


「貴様には人としての情がないのか!? お前は兄だろうに、幸いにも命が助かった家族にお前は死ねというのかニール、この冷血漢が!」

「此度の出撃でアルヴィオスが予想もしない反撃をしてくれば私もまた死にますが、それについてはどうお考えで?」

「お前の死など! このディアブロスに如何程の害となる!? 些細な話ではないか!」


 ニールは失笑した。最初は家族の話をしていたのに、ニールが問い返せば国益へと論点をすり替える。

 滑稽だ、あまりに滑稽だ。感情のままにこの男は自身の愚鈍さをぶちまけており、自分の言っていることの矛盾にすら気が付いていない。


「父上。貴方の行いこそがディアブロスへの害そのものだ。私に口止めし、命を奪うこともせず、ただただ生かし続けるだけ。殺してしまえば次に移るのに、それもせずにもう三年だ」


 そうとも、魔王の不在をどれだけディアブロス国民は不安に感じているだろう。

 そしてそのせいで、此度は食糧民の数多住まう連結都市ターミナルシャフトを潰す羽目になり、その補填として狩猟部隊が組まれている。

 この出撃で、無論被害はアルヴィオス王国の方が大きくはなろう。その為にニールとニンファが準備をしているのだから。

 だからとて、ディアブロス王国側が無傷で勝利できるはずもない。敵にも騎士と魔術師がいるのだ、無血での勝利などありうるはずもない。


「どうせ覚えられる知能もないのでしょうが、せめて聞いてはおいて下さい。この出兵で士民が死にます。それは私と貴方の罪だ。我々は国に対する裏切り者なのだとね」

「下らぬ話だ! 一般士民が何人死のうとそんなことは些細な問題でしかない!」

「……奸賊め」


 ニールはそう吐き捨てて食堂を去った。父親が背後でわめいていたが、そんなことはニールにとってはどうでもいい話だった。

 洗面所で壁の栓を抜いて水を流し、掬い上げて顔を伝うスープを洗い流し、手拭いで拭って鏡を見る。


 そこにあるのは裏切り者の顔だ。この三年、ずっとディアブロス王国を裏切り続けている叛徒の顔だ。

 その後ろめたさから逃れるべく必死になって鍛錬を続け、一闘士民の地位を得た。だがその地位は何一つこの息苦しさを消し去ってくれるものではない。




 髪の水分を雑に拭い終えたニールは、そっとこの家に住まう三人目の家族の部屋へと足を運んだ。

 ベッドに寝かされたそれは、もう筋肉など粗方失われてやせ細り、死人にも等しい風貌になってしまっている。


 だがそれでもその胸は上下していて、心の臓は血液を全身に送り続けている。

 しかし、それだけだ。


 五年前に遊び場で頭を強く打ったこの子は、それから指先一つすら自分では動かすことができないまま今に至っている。

 そこまでなら、まだ何も問題はなかったのだ。問題はこの子が寝たきりになった後、三年前に現れた。


 その全身に刺青のような模様が浮かんでいるこの子はしかし、母親やニールと同じ角鬼イーヴル族なのだ。

 だからその刺青のような模様は父親譲りの剛鬼フィーンド族のものではない。後天的に、浮かんできたものだ。


 だが、それは。

 それは絶対に自分の意思で身体を動かせない、思考も、命令一つも発せない士民の身体にあってはいけないものだ。

 これは、これを持つものはディアブロス王国一千万の士民のために働かねばならない。それが無理ならその命を国に返して次に譲らねばならないというのに――こんなところで五年も、ずっと寝たきりで、父親に何とか命を紡がれているのが精一杯で。


 これが、これを国に対する裏切りと呼ばずして何と言うかを、ニールは知らない。

 疑いなくニールもニールの父も、どうしようもないほどに国に害成す奸賊でしかないのだ。


「行ってくる、出撃してくるよ、ニクス・・・。我らが魔王陛下・・・・。能うならばお前だけは、私の無事を祈ってくれ――というのは傲慢だな。お前を殺せと父に言った私がそれを求めるのは」


 だが、自らの手でその命を奪えないニールもまた、父と己を嘲笑いながら出撃する。

 家族のために、数多の市民へ犠牲を強いるべく出撃するのだ。あまりに最低の行為に目眩がしてくるが――それでも、ニールもまた昔は自分を兄と慕ってくれていたニクスを殺せない。その記憶がある限りは、ニールはニクスを殺せない。


 家族だから、で何でも許されるはずなどない。それが分かっていても、ニールにはその手を下せない。

 ニクスが死ねば、絶望した父も死ぬだろう。そうなれば己は天涯孤独の身だ。あんなゴミクズでも、いないよりはましだ。


 あるいは、デスモダスのように数多の女を囲えば、気も晴れるのかもしれないが。

 地位か顔か、どちらかに惹かれて寄ってきた女をその手に抱くたびにニールの脳裏を過ぎるのは、痩せこけ骨と皮だけになったニクスの表情なき寝顔なのだ。


 この呪いから逃れる術を、ニールは何一つとして持ってはいない。


「あるいは、私が死んでしまえば全ては解決するか」


 だからといって自死をする気にもならない。

 能うならば、この出撃でニールを仕留められる猛者でも現れてくれればいいのだが。


 ニール・インジャードは未だ、行く先も分からぬ闇の中をぐるぐると回っている。

 いつか、この混迷の霧が晴れる日がくるのか、それはニール自身にも分からなかった。


 分からないまま、ただ生き続けているだけだ。






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