■ EX20 ■ 閑話:dormant Ⅱ






――ウルォオオオオオオオオオオーーーン!!


「うぅん……何ようるさいわね……」


 大音量に耳朶を容赦なくタコ殴りにされたアンナはしぶしぶ寝返りをうって重い目蓋を開き、


「……………………え?」


 そして思考停止に陥った。

 ハッハッと、冷え切った部屋に溢れる白い吐息。だらんとぶら下がった赤い舌にベロリと顔面を撫でられ、ようやくアンナは我に返った。


「…………は?」


 が、未だに思考はよろばうばかりで全く纏まった体を成してくれない。


 目の前に獣がいる。

 狼のような、それでいて体長はアンナの四倍以上はあろうかという、黄金の毛並みが月光に眩い巨大な獣だ。

 黄金の瞳と視線が合う。合ってしまう。

 その瞳に映るのは現実が認められず間抜け面をさらしている己の顔で――


「ヒィッ!」


 ようやく跳ね起きたアンナはベッドの上で布団を握りしめながら後ずさるが、無情にもすぐ背後はもう壁である。

 たちまち背中が壁を叩いて、もうそれ以上逃げ場はない。


「何よアンナ、それともルナさん? 明日も早いんだから静かに……」


 そして隣のベッドで目をこすりながら身を起こしたフリーダがアンナを見て、そしてその直ぐ側にある黄金の塊を見て、


「ふぅっ……」


 そのままあっさりと気絶してしまった。


「ズ、ズルい!」


 アンナからすれば何か逃げられたような気になって、思わず非難が口をついて出てしまう。

 この状況で気絶するよりは遥かに意識がある方がマシだ、というまともな思考は生まれてくれない。

 ただただ今この非常事態を直視せずにすむ、というそれだけがアンナには羨ましく妬ましいのだ。


――なに、なんなのこれ! ここ王都でしょ? 貴族街が魔窟っていうのは比喩的な意味だけよね!?


 チラ、とアンナは窓を確認する。カーテンは揺らぐことなく、また隙間風も吹き込んで来ないから窓が破られたわけではない。

 続いて扉に視線を移すも内鍵はかかったままで、つまりこの使用人室は未だに密室なのだ。


 いったい何処からこの獣は入り込んできたのか、まで考えてようやくアンナはルナーシアの声をまだ聞けていないことに気が付いた。

 まさかこの状況でもスヤスヤ寝ているのだろうか。巨獣の気を引かないようゆっくりとその巨体越しに、斜め向こうのベッドを見やると、


――え、空っぽ?


 そこで寝息を立てていなければならないはずのルナーシアの姿が忽然と消え去っている。

 まさかこの獣に食われてしまったのか、なんて考えて、しかしそれにしては血痕の一つも見当たらないのはあまりにおかしい。


 恐怖で思考がぐちゃぐちゃになっているアンナをよそに、黄金の獣はスンスンとアンナの顔先で鼻を鳴らし、くるりとアンナに背を向けた。

 踊る尻尾がアンナの頬をスルリと撫でる。


 そのまま獣は床板を軋ませながらノシノシ扉へと向かい器用に前脚で内鍵を解錠すると、そのまま扉から出ていってしまった。

 フリーダは相変らず気絶したままであり、一人残されたアンナは茫然自失である。


「な、なんなのよいったい……」


 アンナには何が何だか分からない。すっかり腰が抜けてしまってベッドの上から身動きも取れない。

 もっとも身動きが取れたとしても、あのような獣を前にしてアンナにできることなど何もないのだろうが。




――――――――――――――――




「ハイハイなんなのなんですか、こんな夜中に」


 ドン、ドンと扉を乱雑に叩く音に無理矢理目を覚ませられたプレシアはあふ、と欠伸をこぼしながらベッドの上で半身を起こす。

 問うてみても答えはなくドン、ドォンと重くて雑なノックだけが続いていて「にゃろうアンナめ、さてはお嬢様してる私に嫉妬しての嫌がらせか浅ましい」なんて実に浅ましいことを考えていたプレシアの目の前で、


「グガァアアアアッ!」

「ひぇえええええっ!?」


 入り口の扉が真っ二つにへし折れ蝶番が跳ね跳び、廊下から金色の塊が部屋の中へと飛び込んでくる。


「ガアッ、ガオオオッ!」

「え、は? あ、ルナーシア、さん?」


 シーツを握りしめポカンと口をあけるプレシアの前へやってきたルナーシアがスンスンと鼻を鳴らし、


「グガァッ! ガウッ! ガオオオォーン!」


 何処か悲しそうに雄叫びを上げる。


「ちょ、待ってルナさん! ここ貴族街だから! 吠えちゃ駄目! お隣さんが、いや警邏の騎士が駆け付けて来ちゃうから!」


 当たり前だが貴族街には馬以上に大きい獣の連れ込みなど厳禁である。

 ましてやこんな、どう見ても人を一噛みで噛み殺せそうな獣をフェリトリー家は飼っているなんて噂が立ったら状況はさらに面倒なことになる。


「アォオオオオオオオオォーン!!」

「ふえぇアーチェ様ぁ! どうすればいいんですかぁー!」


 ベッドの上でミミズのようにのたうち回りながらプレシアは己の守り神に助けを請うが、なにぶんアーチェは神通力など持ちえぬモブである。

 いくらかしこみかしこみ申し奉ったところで颯爽と助けに来てくれるはずもない。


 そもそもアーチェが来たところで何の役にも立たないのだ。

 あの時アーチェがルナーシアを宥められたのはルイセントがアーチェの髪の色を金色に変えたからであって――


「あ、そういう、こと?」


 先ほど鼻を鳴らし、しかしこれじゃないとばかりに寂しそうに吠えていたルナーシアはアーチェははおやを探しているのだ。

 しかしアーチェは今アンティマスク家の館におり、連れてきたところでその髪の色は金色にはなり得ない。


 こんなことでルイセントを呼びつけようものなら、いや呼びに行った時点で相手は王子、プレシアは怪しいお尋ね者扱いされて市中引き回しの上打首獄門である。

 即ちこの状況を何とかできるのは、金色の頭髪をこの館内で唯一頭上に冠するプレシアしかいない。プレシアが一人で何とかするしかないという事だ。






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