■ EX18 ■ 閑話:フィリー・ゼイニ Ⅱ






「ウィンティ様が話をしたいそうだよ。こういうのは直に渡して欲しいってさ」


 一度手渡した辞表を再びアリーに返しながら、アストリッチ伯爵令嬢がそう小さく首を振る。

 その先にある扉の向こうには、あるいは死神の鎌が待ち構えているのだろうか?


 それでも一向に構わないとフィリーは思う。

 ここでこのまま腐っていくぐらいなら、いっそ腐りきる前に首を落として貰った方が遙かに楽だ。少なくともそのほうが残る死体も美しかろう。


 扉をくぐると、茶会のテーブルごしに腰掛けたウィンティと、その背後に並んだ側近たちの視線がフィリーに突き刺さる。

 憎悪、侮蔑、嘲笑、敵意、それを越えた殺意。視線の色は様々だったが、それはフィリーにとって何らの価値も持たぬ情報だった。


「いらっしゃい、ゼイニ男爵令嬢。座って頂戴」


 同派閥であれば、一度目をあえて拒絶する方が失礼にあたる。

 そのままフィリーがウィンティの対面に腰を下ろすと、速やかに紅茶が運ばれてくる。

 いい香りだ。極上の茶葉と抽出技術が投じられた結果がこのカップの中身であることは疑いあるまい。

 もっとも、今は極上の毒もまた混入されていようともフィリーは全く驚きはしないが。


 どうぞ、と促されるままにカップに口を付けて、一口嚥下する。

 美味しい。毒は――即効性のものはどうやら混入されていないようで、少しばかり残念にも思う。


「私の陣営から抜けたいとリトリーから聞きましたが、本当かしら? ゼイニ男爵令嬢」


 リトリーはアストリッチ伯爵令嬢のファーストネームだ。少なくとも名前呼びされる程度にはウィンティからの覚えがいいと見える。

 重用されてるんだな、とフィリーは笑った。あるいはあれは昼行灯の振りだったのかもしれない、と。


「はい。私には御身をお支えするだけの力がない、と理解しましたので。これ以上傘下に留まるのはただ御迷惑になるだけと」

「迷惑に感じることなどないわ。ただ一翼を担ってもらえるだけでありがたいもの」


 ウィンティはやはり困ったような微笑でフィリーに応じるもので、思わずフィリーも小さく笑ってしまった。

 ウィンティがフィリーに向ける顔は唯一、後にも先にもこれだけだ。これが迷惑をかけてると言わずして何と言うのか。


「過大なるご評価、まことにありがとうございます。しかし御身の背後に並んだ顔を見れば答えは自明のものと存じます」


 フィリー・ゼイニは負け犬だった。

 この先切り開かれる未来など無く、将来は既に展望が持てず。

 だから失って惜しいものなど何もなく、それは己の命もまた然り。


 ウィンティが背後を振り返るが、その時には既に誰もが柔らかな笑顔だ。

 だがウィンティ自身何やら思うところがあったのだろう。


「皆さん、悪いけど少しだけゼイニ男爵令嬢と二人きりにしてもらえるかしら?」


 その言葉は、どうやら取り巻きたちの想像の埒外にあったようだ。


「ウィンティ様! 危険すぎます!」

「そうですわ。この者は元々アンティマスクの配下にいた恥知らずなのですよ!」

「御身の命を狙っているとも限りません! 甘く見てはなりませんわ!」


 にわかに始まった燕雀のさえずりに、しかしウィンティは今一度笑顔を強めて、


とつはおよしになって? 私はゼイニ男爵令嬢と二人きりにして欲しいと言ったのです」


 繰り返し語られた言葉と笑みにはまさしく鴻鵠こうこくたる威厳と有無を言わせぬ力強さがあり、燕雀程度ではとても抗えるものでは無い。

 そうして己の本来の侍従一人を残したウィンティが今一度フィリーの顔を見て、残念そうに首を横に振る。


 美しく手入れされた桃色の髪が輝きながら、まるで駄々でもこねるかのようにサラサラと左右に揺れた。


「私はね、馬の背に乗って早足で駆けているのよ」


 何の話をウィンティが始めたのかフィリーには分からなかったが、上位者に口を差し挟めるはずもない。

 黙って続きが紡がれるのを待つ。


「だから地面に綺麗な小石が転がっていても、手を伸ばして拾い上げることもできないし、馬を止めることもできないの」


 何のことだろう? としばし考えて、どうやらその小石というのが自分を指しているらしいことにフィリーは気がついた。


「馬を止められない、のですか?」

「手綱を握っているのは私じゃなくてお父様だからね」


 ウィンティのやや疲れたような告白にフィリーは軽く不安を覚えた。

 それは自分が聞いてもいい話なのだろうか?


「それを、私に告げてもよいのですか?」

「そんなの皆知っていることよ。オウラン陣営は私のものではない、お父様のものだって」


 どうやら学園在学中における学生派閥における人事権すら、オウラン公に握られているらしい。

 だからこそゼイニ男爵令嬢などという馬の骨を使うことなどできやしないということか。


 その小石が、どれだけウィンティには綺麗に思えたとしても。

 前を向いて全力で馬を走らせているオウラン公の目に、そんな小石が留まるはずはないのだと。


「残念だわ。私の審美眼なんて大したものではないから人の心なんて読めないけど、学習意欲ぐらいなら振る舞いを見れば分かるからね。できれば、手元に残しておきたかった」


 その言葉はフィリーがウィンティの目に留まっていたことを示す明け透けな告白であろう。

 だが同時に辞表を撤回してもウィンティがフィリーを使える未来は永劫あり得ないという決定的な明言でもあった。


「分かっていると思うけど、派閥を抜ければそれなりの制裁が下されるわよ」


 入ってくるものには目をかけないくせに、抜けるのはそれが小石一つですら許せないと。

 オウラン公爵家のそんな狭量さに思わずフィリーは笑いそうになったが、どうやら心配してくれているらしいウィンティを前に笑うのは失礼だろう。何とか真剣な面持ちを堅持しきる。


「構いません。私の未来は既に閉ざされています。この先命が閉ざされようと何も変わらないでしょう」


 そう、一男爵令嬢如きの命など。

 ウィンティの派閥を抜けたと知られれば父から親子の縁を切られるかもしれないし、そうでなくても公爵家たるオウラン相手に男爵家であるゼイニがものを言えるはずもない。


「少しだけアーチェが羨ましいわ。アンティマスク伯、娘には何の手出し口出しもしてないみたいだし――アーチェのところへ行くの?」


 成程、あるいはミスティ陣営に逃げ込めばオウラン公も流石にヒョイと制裁を行なうわけにもいかないだろうが、


「私は勝手にあそこを抜けた身です。戻る先など最早ありません」

「そう……もうとうの昔に終えているのね」


 ウィンティの言うとおり、未来に夢を見ることなどもうとっくにフィリーは止めている。死ぬ覚悟を終えている。

 何ら特別なことではない。よくある話だ。


 時流の読めない愚か者にはこの貴族社会で生きていくことはできない。そういう現実がフィリーの前に立ち塞がっただけ。

 フィリーはこの貴族街に建国から今まで無数に転がって果てた負け犬の骸の、そのただ一つに過ぎないのだから。


「今までお疲れ様、フィリー・ゼイニ。貴方に知神のご加護があらんことを」

「ありがとうございます。オウラン公爵令嬢に風神のご加護があらんことを」


 つい、と風に乗った辞表が傍らで部屋を暖めている暖炉に吸い込まれて、そしてあっという間に灰となって散っていく。

 それを見届けることなく、フィリーはオウラン家の談話室を後にした。ここに戻ることは、もう二度とないだろう。






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