■ 77 ■ リオロンゴ河 Ⅱ






「あれ、どっかで見た顔だと思ったらアーチェじゃない」


 ザバザバと、何やら石を括り付けた縄を担いだ女性が水辺から上がってきて私に声をかけてくる。

 この顔どっかで――ああ、今は水着姿かつメガネがないから一瞬分からなかったけど、


「ベイスン室長、お久しぶりです」


 バゼット・ベイスン男爵。象牙の塔魔術研究室にて治水の研究、というかリオロンゴ河の測量を延々続けているベイスン研の室長。

 暇さえあれば現場に出ていて研究室に帰ってくることが殆どない活動的な女性が――まあ、ここにいるのはある意味当たり前だよね。だってここが現場だもん。


 相手は男爵閣下ということもあり視線で促してプレシアと共に下馬しようと腰を浮かすも、


「ああいい、堅ッ苦しい挨拶はいらないよ。王都じゃないんだから」


 面倒くさい、とばかりに手を振ったベイスン室長がニィっと相好を崩す。


「ついに記録だけじゃ物足りなくなっててアーチェも現場に出たくなったかい? 測量の手は幾らあっても足りないからね、歓迎するよ」

「いえいえ、私は机の上で数字転がしている方が好きなので。体力もありませんしね」

「そうかい? こんな楽しいチャンスそうそうないってのに。勿体ない話だねぇ」


 少し残念そうにベイスン室長が前髪の滴を乱雑に拭って髪をかき上げる。

 なお水着姿と言ってもこの世界には前世のような機能的な水着はない。単に透けない厚手の上下を身につけるだけで、まあ短パンにノースリーブを合わせたみたいなもんさ。


 元々が乙女ゲーだし、女性水着をウリにする世界観じゃなかったしね。水着イベントはメンズボディが堪能できればそれでいいのだよ。

 ま、この現実的には女性が伴侶以外の殿方に胸から下の肌を晒すのはみっともないっていう歴史的背景があるからだけど。


 しかし……ちょっと聞き捨てならない言葉が聞けたね。


「ベイスン室長、チャンスというのは?」

「ん? ああ、そろそろこの河、氾濫してもいい頃だし」


 何気なく放たれた一言に、思わずダートとお互いの顔を見合わせてしまう。


「このリオロンゴ、ここら辺でこうグイッと湾曲してるだろ? そのせいでここら辺、かなり土砂が溜まってきているんだ。あとは大雨さえ来てくれれば派手に行くぞ!」


 手刀で中空に河の流路を描いてみせたベイスン室長が、それはもうおかしげにパッと掌を広げてみせる。


「大洪水、ですか……」

「そうとも! 流路が変わるぞ! また測量する楽しみが増えるじゃあないか! 何もかも一からやり直しだよ、最高だね!」


 ……わからん、一からやり直しの何が楽しいのかは私には分からないけど、取りあえず重要な情報は聞けた。

 ナンスはキラキラと目を輝かせてるし、ダートや他の獣人の私を見る目には若干の畏怖が灯っているような――うんまあ、ドンピシャで予言当てたみたいになってるもんな。


 私が知っているアルヴィオス王国の地図と、転生した直後に見たアルヴィオス王国の地図では若干地形に差分があった。

 その差分が何か、と言えば、それがリオロンゴ河の流域の違いだ。


「次に、大雨が降れば」

「無論それだけじゃ駄目だね。例年通り雪が降って、雪解け水もキチンと豊富であることが前提だ」


 つまり冬の降雪量がしっかりあって、あとは春か秋に川上で大雨が続けば――このリオロンゴ河は大氾濫を起こす。

 であれば、今現在が既に一つの正念場だ。ここでの判断が、後々まで影響を及ぼす。


「……ベイスン室長、一つお願いがあるんですけど」

「おや、なんだい?」

「その測量結果と推論、論文にして国に提出するの、待って貰えないでしょうか」


 そう言葉にすると、プレシア、ルナさん、そしてナンスたちがにわかにゴクリと唾を呑む。


「ん? そもそも誰も読まないし面倒だから書く気はなかったけど……ははぁ、アーチェも貴族だね。悪いこと考えてる顔してる」


 顔、にやけているだろうか? いや私の貴族的作り笑顔は割と完璧だ。であれば気配か。

 流石に興奮からの産毛と毛穴までは私も完璧な制御は難しい。貴族としてまだまだだね。修行が足らないよ。


「とんでもない。私は忠実なる王国の僕ですよ。そしてその次に第二王子の派閥でもあります」

「ふぅん? その物言い、つまり王国に対する利益になるってことでいいのかな? 私が秘したところであげつらわれることはないと?」

「第一王子派には何か言われる可能性もありますが――ベイスン室長が論文を書かないのは今に始まったことじゃないですよね?」


 そうそっと反応を伺うと、ベイスン室長がククッと楽しげに肩と振るわせて唇を歪める。


「そうか――アーチェ、君、奪う・・つもりだね?」


 あえて言葉は返さず、ただ笑みだけでその問いに答える。

 そう、その為にダートたちに準備を重ねさせていたのだから。


「君の企みが成功するとして――私たちは今まで通り測量を続けられるのだろうね?」


 ベイスン室長の値踏みするような視線に、一度考え込む振りをして視線を横に向けて――一瞬にしてダートと意思疎通。


「勿論ですとも。むしろ今より優遇してもよいくらいです」

「結構! であれば私としては文句はない。ああ、貴族の習わしを研究室に持ち込んでくれるなよ?」


 欺瞞と面従腹背が貴族のルールであるとするならば、象牙の塔魔術研究室のルールは秘匿はしても偽装はしない。嘘を吐かないということ。

 論文に捏造や虚偽を記してはならない。それをやってしまったら、学者としての人生は終わりだ。研究に失敗や間違いは付き物だが、意図的な嘘は絶対に許されない。


「勿論。私もリージェンス研の室員なれば、我が長アルジェ・リージェンス室長の名誉にかけて」

「よろしい、それでこそ学徒だ。ならその日を楽しみにしておこうじゃないか」


 ベイスン室長が笑って私たちに背を向け、室員たちと合流するべく立ち去っていく。


 さあ、思いがけないところからお墨付きは貰えた。情報も秘匿されて、私たちは他を出し抜くアドバンテージを得た。

 であれば、秘密にするのもここいらが限界だね。お姉様と、その護衛のフリをしているルイセントを招き寄せてメイとケイルで音の結界を張り、この地に獣人を集めた真の理由を伝えると、


「……そんなことを考えて布石していたのか」

「なんてこと……獣人を水夫に使うことすらただの準備でしかなかったのね」


 二人が唖然としてリオロンゴの流れに自然と目を向けてしまう。


「これが私に考え得る、ルイセント殿下への最大の貢献となります。天候の条件が揃うかは博打、獣人が私の指示に従うかも博打、ルイセント殿下が正当性を父上に認めさせることができるかは――殿下の話術次第です。この策を進めるか否か、今この場で決めて下さい」


 私の策によってアルヴィオスが被害を被ることはない。だが、私より多くの収穫を得ようとするものは現れるだろう。

 それらの強欲を封じ、私の策の利をきちんとアルヴィオス王家に認めさせることができるかはルイセント次第だ。

 獣人が翻意する可能性を踏まえた上で、獣人を皆殺しにすることで得られる利益よりも、私の案のほうが王国にとって利であるとルイセントがアピールできて初めて、この案はアルヴィオスの利益になる。

 そうルイセントに伝えると、


「……分かった、進めてくれアンティマスク伯爵令嬢。平和な世で兄上以上に王国に利をもたらす案など、これ以上のものはないだろう」

「畏まりました。ルイセント殿下」


 ルイセントが真面目な面持ちで頷いたので、さぁここからはノンストップだね。伸るか反るかの丁半博打。

 上手く乗ってもヴィンセントやウィンティ、オウラン公の邪魔が入る可能性もあって、それらをはね除けられなければ私たちの負けだ。

 でもその程度の策略もルイセントができないようなら、そもそも負けておいた方が王国にとっては都合がよかろうよ。無能な王など邪魔なだけだからね。


「このために、アーチェはこの夏にフェリトリー領へ来る必要があったのね。完敗よ、王国の誰にもアーチェのこの意図は理解できないでしょうね」

「そうでなくては困りますからね。ミスティ陣営の乾坤一擲、このために二年前からずっと準備を進めていたわけですから」


 何もしなければ王都で死んでしまっていたかもしれなかったダートを生かし、その上でルイセントがヴィンセントに仮に負けても、命だけは助かるように、対魔王戦に投入できるようにする。

 その為にずっと蠢動してきたのだ、お父様にだってこの私の策は読ませないとも。


 全ては、魔王に勝つためだ。

 その為に私は、このガバガバアーチェチャートを組んだんだからね。






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