■ EX12 ■ 閑話:ミスティ・エミネンシア Ⅱ




「それでは何か御用がございましたらお呼び下さい」


 侍従のスレイが退室して、独りきりになったミスティはベッドへと倒れ込んだ。

 未だこの世に現実感がなく、己は夢中に漂う泡沫、あるいは胡蝶なのではないかとすら思える始末。


 それも致し方あるまい。

 長年慕っていたルイセントが今日この日に、王位よりも己が欲しいと望んでくれたのだ。


 自身の加護が闇神であると知らされた日から、最早叶わぬと半ば諦めていた願望。

 ついぞ夢にすら見ること叶わなかった最良の未来が現実となって今ミスティの前にあるのだ。


 とても現実とは思えない。明日を迎えるのが怖い。

 明日になったらルイセントが冷静になって婚約を解消してくるのではないか、なんて疑念が拭えずにいる。


 そして、喜んでばかりもいられない不安も。

 そっと、ミスティは本より重いものなど一度として持ったことのない指を己の首へと伸ばす。


 今のミスティの首下にはアルヴィオス王家の紋章が刻まれたネックレスがかかっている。

 誰から見ても王家の婚約者だと一目で分かる証。ミスティを婚約者と定め、理由なく変更しないことを何よりも如実に示す証だ。


 だが伸ばされたミスティの指はそのネックレスで止まることはなく、その先にある魔封環に触れる。

 全てはここから始まった。己をこの場へと導く最先となった献策。配下からのあまりに非常識な提案。


「アーチェ・アンティマスク」


 名を呼ぶ。

 己をお姉様と慕う忠実な配下の名を。


 彼女が自分をここまで連れてきてくれたのだと、今のミスティは正確に状況を把握できている。

 現実的には己はアーチェの操り人形であると。自分はアーチェが用意した軌道レールの上を滑っているだけだと。


 それでも嫌悪の一つも感じないのは、アーチェの全てはミスティが自分で物を考えられるよう、ミスティの成長を促す方向へせっせと軌道レールを敷いているのだと、今のミスティには理解できるからだ。

 自分の言いなりにするためにミスティを操っているのではなく、己の軌道レールから逃れる術をこそミスティに身につけさせようとしていると分かっているからだ。


 シーラも献身的に己を支えてくれていて、彼女にもどれだけ感謝しても足らないだろう。

 だが彼女はどちらかというと軌道から脱線しないよう支えてくれる形で、軌道レールを敷く程の先見性は己と同じくない。

 辛いときでも親身に苦痛を分かち合ってくれるが、切り開いた道へミスティを誘導するだけの知見は持っていないのだ。少なくとも今は、まだ。


 アーチェだけが一人で先を見ていて、ミスティが望むその先へ続く軌道レールを単身敷き続けている。

 その上で自分の背中まで延々押し続けてくれているから自分はここまでこれたのだと、今やそれが分からぬミスティではない。



 彼女に会った当初の自分を思い返すと、それだけでミスティは羞恥で耳まで赤く染まってしまう。

 過去をほんの少し振り返るだけですら悶え声を禁じ得ない程の、幼き頃の自分の愚かしさ。


 当時の自分を想うと「よく恥も感じずに王子の婚約者を名乗れたな」と自分自身を罵りたくなる衝動にすら襲われる。


 そんな、自分を。

 恩義も思慕もなく、あそこまで愚鈍を超えて害悪ですらあった己を見捨てずここまで連れてきてくれたアーチェの原動力。

 それが今や著しく成長したミスティにも未だに分からない。


「あの子には何が見えているのかしらね」


 何が目的なのか。ルイセントを王位につけておこぼれを貰う、などと言っていたのは今のミスティには間違いなく建前と看破できる。

 できるのだが、その建前の裏に何が隠れているのかは未だに分からない。


 評判、実力、後ろ盾においてウィンティに大きく劣るミスティを婚約者としている第二王子ルイセントの方が、第一王子ヴィンセントより王位から遠いのだ。

 そんな己に付く利がアーチェにあるか? ウィンティに恨まれている今ならともかく、七歳のあの時点でだ。


 パッと思いつく利が全くないのにアーチェは献身的にミスティへ尽くしてくれる。

 それこそ自分の将来どころか命の危険まで賭して、だ。

 その理由がミスティには分からない。理由など無いのでは、なんて益体の無いことすら考えてしまう。


 ただ、何となくではあるが、こういうことを考えるのはどうかと思わないでもないが。

 本当に理由などなかったりして、なんて真面目に考えてしまって。


 アーチェは見返りを何一つ求めていなかったりして。

 そう、例えるなら雛鳥を見守る親鳥のような、時にそんな印象をアーチェに見いだしてしまう昨今である。


 幼き頃の己の我が儘に手を焼いていたお母様にアーチェの振る舞いを重ねてしまうときがあるのは――やはり大人と子供程に能力に差があるから、なのだろう。そう思いたい。


 母親に急逝された寂しさから、己と同い年の相手に母性を感じるなど。

 恥の上塗り以外の何物でもない、とも、ミスティとしては思うのだが。


「……止めましょう。建設的ではないわ、この思考は」


 そう自分に言い聞かせても、考えることを止められない。

 何せミスティが今現在もっとも未来の王妃に相応しい存在を挙げろと言われれば、間違いなくアーチェ・アンティマスクの名を挙げるだろう。

 初めてそれに気づいたのは、あのウィンティとのお茶会を終えた時だ。


 アーチェの目論見通り本当に己が用意した墓穴に収まれただけでもミスティには十分に驚異的だった。

 だがそれより衝撃的だったのは己とアーチェの間にウィンティを置くなら、ウィンティすら己の傍に位置することになると気がつけてしまったからだ。

 その事実に思い至ったときは身体の震えを止めることができなかった。


 ミスティはルイセントのことしか見ていなかった。

 ウィンティですらヴィンセントとその利益までしか視野に入れていない。

 ただ一人アーチェだけがアルヴィオス王国の利益を考えていて、しかも既に行動にまで移している! たかだか十一の齢の令嬢が!


 王妃に必要な知識だけで言えばあるいはアーチェよりウィンティの方が上なのだろう。

 だが、あの見識。どう行動すればアルヴィオス王国にとって益となるかという広い視野と行動力の前ではそれすらも霞む。


 誰もが何とかして至高の席を射止めんと狙っている中で一人、今の自分のままで国益に繋がる行動を起こしている。実際に国へ貢献しているのだ。


 己では、逆立ちしても敵わない。ウィンティですら及ばない。しかも十年後ですら今のアーチェを超えられるか怪しい程だ。

 それを覚ったからこそミスティはルイセントに辞退を願い出て、しかしルイセントはそんなミスティを選んでくれた。

 自分をここまで牽引してきたのが誰か、それが分からないルイセントでもないだろうに。


 だが、ならばミスティはその期待に報いるためにあそこを目指さねばならない。

 誰を、ではなく国を富ます視点。国を守る視点。アーチェを越えられずともせめて並べる程度の視点を。


 しかし何をどうすれば国益に繋がるのか、それがミスティには分からない。

 成長した今ならとっかかり程度の考えは浮かぶが、それが国益に繋がるかどうかの判断が出来ない。


 最善と思って打った手が、「無能な働き者ほど邪魔なものはない」と裏で言われる結果になる未来しか予想できない。

 ましてや自分を蹴落とそうとする連中を捌きながら最善手を模索していくなんて――どれだけ経験を積めばアーチェに追いつけるのだろうか。


 そんなことを考えている最中にノックの音に次いで、


「お嬢様、御館様がお呼びです」


 現れたスレイに簡単に身支度を整えられ、促されるままに訪れた談話室にて、


「近く、私の再婚を考えている。留意しておきなさい」


 茶に口を付けるより早くに父親にそう言われて、ミスティはとっさに言葉の意味を把握しかねる。

 かねてより父は既に鬼籍に入った母親一筋だった。

 ミスティがそうであるようにミスティの母も女神が之を妬くと謳われる程に美しい娘で、父は母以外の女など目に入らないと言わんばかりの溺愛ぶりだった。


 その母が急逝した後も後妻を娶る素振りも見せなかったのに、いきなりなぜ。

 そう疑うミスティを前に、どうやら覚悟を決めたらしいエミネンシア侯バナールが青い髪を揺らし、真剣な面もちで愛娘を見やる。


「ミスティ。いずれお前とルイセント殿下の婚約は解消して、お前には婿をとって貰おうと思っていたが――殿下が是非にとお前を求めてきた。であればエミネンシア家の新たな跡継ぎが必要になろう?」

「……殿下が世継ぎ争いに敗れた場合にもこの家は継がせない、と?」


 確かに、自分が万が一王妃にでもなるようなら跡継ぎが必要だろうが、現状のままなら高確率でヴィンセントが王位を継ぐことになるだろう。

 備えがあれば憂いもなかろうが、あまり問題はないのではないかとミスティとしては思わなくもない。

 ましてや母を溺愛していて一人の後妻もいない父のことを思えば。

 だが、


「エミネンシア領は港を抱える交易の一大拠点だ。それを王位継承戦に敗れた王族に渡しては国の安定が揺らぐ」


 どういう意味か、むしろ要所なら王族がエミネンシアの地を治めた方が国が安定するのでは、としかミスティは思えないのだが。

 そう首を傾げるミスティに向けられる父親の視線は、最早憐憫にも近しい。


「国の安定の為には王位継承権所持者は少なければ少ないほどいい。いや、王の実子以外にはいない方が余程よいのだ」


 父親はいったい何を言わんとしているのか、それに、


「ましてやヴィンセント殿下の後ろ盾はあのオウランなのだぞ。当主を毒殺しその娘に罪を押し付け、まんまと公爵家を乗っ取った、な」


 父の言葉に隠された真意に気が付いたミスティは彫像と化した。


 しばしの後に唐突に胸苦しさを覚え、それが己が呼吸を忘れていたが故だと気がつけたのはそのさらに後である。

 はっはっ、と慌てて荒い呼吸を繰り返したミスティは、ようやく自分がどれだけ父親から愛されていたのかを理解するに至った。


 父の事なかれ主義的な行動は、全てミスティのためを思ってのことだったのだ。


 ミスティにとって家族仲は良いのが当たり前だった。だがオウラン家からすれば家族仲など無いも同前。

 しかも国が割れないように王位継承権保持者は最良で粛正すべきだし、最悪でも富ませてはいけない飼い殺しにするべきなのだと。


 それらを踏まえて考えれば、一度ルイセントに嫁げばもうミスティがエミネンシア領の地に住むことはない、ということになる。

 まかり間違って王妃に成れても、そして大方の予想通り政権争いに破れても、どちらにしてもだ。


 そのことは多分アーチェもシーラも、侍従のスレイもルイセントも分かっていた。というより前提すぎて念押しをする必要すらないと思っていたに違いない。

 ミスティだけが、それを理解していなかった。


「お前には、もう少し穏やかな人生が向いていると思っていたが……人の心まではどうしようもないな」


 そう寂しそうに笑う父親を目にして、本当に、とミスティも思う。

 今更自分が薄氷の上にいると気が付いても、失敗した、もう遅いなどとはミスティは全く思わない。


 今この道を歩いている以外の自分など、七歳のあの日からずっと想像もできなくなっていたから。

 アーチェが敷いて、シーラに支えられながら三人で進んできたこの道がミスティ・エミネンシアのあるべき姿だと心から信じられる。他の未来など考えられない。

 学ぶべきを学び、知るべきを知って進んできたこの道を、ミスティ・エミネンシアは後悔はしない。


 政争に勝っても負けてもいい。勝てれば最上ではあるが、負けたからとて誰にも文句は言わないし言わせない。嘲笑の全てを無視してけられる。

 ここまでの道を敷いたのは確かにアーチェだが、敷かせたのは他でもない自分だ。


 自分が命じて、自分で選んだのだ。


「はい、お父様。私の未来に穏やかな道など存在しない。それが私の運命だったのでしょう」


 恋した人を支えたいと願い、そしてその人に求められた。これ以上の幸福は他にあるまい。

 推しの幸せの為に生きて、推しの幸せの為に死ぬ。


 上等ではないか。

 恋する乙女に理屈は要らぬ。

 死して屍拾うもの無し。


 アーチェも言っていたではないか、一人くらいはそういう生き方をする女性がいてもいいと。

 全員がそうだと困るとも言っていた気がするが、そこは都合よく無視すればいい。


 命も恋も埋めるに何の利があろうや。埋火が意味を持つのは再び火を付けるためであり、埋まっていること自体に意味があるわけではないだろうに。

 秘めて永久に埋めるくらいなら――華々しく燃え尽きた方がよっぽど良い。静心なく花と散るが幸。唯春の夜の夢のごとし。


「親不孝な娘ですみませんお父様。大事にして頂いたのに、何一つご恩を返せなくて」


 自棄も不安もなく、ただ穏やかに謝罪を告げる娘に父もまた温かな笑みを返す。


「構わんよ。それがお前の道だというならな。冒険できない私の分まで好き勝手やるといい。ただし後悔だけは無いようにな」

「はい。お父様もどうか幸せな再婚を」


 領地を第一にする父親と、婚約者を第一とする娘の道は分かたれ、もう交わることはない。

 しかし違う道を進むということは、それだけエミネンシア家全体の生存確率は高まるということでもある。


 それが分かっているから両者は至極穏やかに、笑顔で、互いの道を祝福することが出来る。


 道を違えるということは、辛く悲しいことばかりではないのだと。




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