■ 45 ■ 穏やかな日々にさよならを Ⅰ




「ねー頼むよルナくぅーん、珈琲を入れておくれよぉー眠くてたまらないんだよォー」

「眠いなら我慢しないでベッドで寝て下さい! 何日ベッドに戻ってないと思ってるんですか!」

「いいじゃないかふわぁ……ぁ……ボカぁね、論文が書きたいんだ、あと感光剤の改善もしたいし定着液だって改良の余地がある。豆食がもたらす影響はアーチェの予想通りだったけど、原因物質の特定には至ってないし。寝てる暇なんか無いんだよぉー」

「人は寝ないと死ぬんですよアルジェ様!」

「ハハハ、ボカぁ死なないよ。まだ死んでる場合じゃないからね」


 ……この扉を開けたくないな、という思いが強くなってきたけど、こうやって扉の前で待機しているわけにもいかないし、思い切ってリージェンス研の戸をそっと開く。


 予想通り、作業台の上で半眼になって口から魂が抜けかけているルジェと、そのルジェのお馬鹿っぷりに困り果てているルナさんがチラリとこちらに視線を投げる。


「助手一号二号戻りました。あとルジェはとっととベッドで寝て下さい。何徹してると思ってるんですか」

「そんな暇はないよアァアーチェェェェー。ガイアがボクにもっと研究しろって囁いてるんだァ」

「ガイアなら鼓膜破る勢いで大声出しますからそれは幻聴です。ほーらルジェ羊が一匹羊が二匹、三匹、四匹、五匹。はい落ちた」


 目の前で指を回しながら羊を数えると、限界を超えたアルジェが作業台に突っ伏して寝息を立て始める。

 ……コンビニ飯で生きていた私が偉そうなことは言えないけどさ、ほんとこいつの生活無茶苦茶だわ。このままほっとくと若くして脳卒中とかで死ぬアッアッ、トラウマが。


「……手慣れてますね。アーチェ様」

「助手一号だからね。ごめんなさいねルナさん、迷惑ばかりかけて」


 最近じゃ健康を取り戻したルナさんはすっかりアルジェの侍従ポジションに収まっていて、しかしアルジェがアルジェなのでてんやわんやの毎日だ。


「とんでもありません! こちらこそ助けて頂いたお礼をしたいのですが……どうすればアルジェ様へのお礼になるのか分からなくて」


 そう言葉尻をすぼませてルナさんが恐縮してしまうけど――

 うんまあ、普通に考えればルジェなんぞぶん殴ってでもベッドに押し込むのが正しいとは思うけどね。

 当人の意向を無視することにルナさんとしては罪悪感を覚えざるを得ないかぁ。対人経験の少なさが露呈している感じね。


「アルジェにとっての望みは一秒でも長く研究をすることだから、一秒でも長くアルジェが生きられるよう計らうのが一番のお礼でしょうね」

「成程、流石はアーチェ様です!」


 ぎゅっと拳を握って私を見つめてくるルナさんは――アルジェがアレなので相対的に最もルナさんにとって賢い人間が私に見えるみたいで、その純粋な尊敬が辛いわ。

 私は所詮文明が進んだ異世界から転生してきたクソ庶民でしかないというのにね。


 メイがアルジェをベッドに運んでいる間に、どうやらアルジェの期待に応えるべくポットが火にかかっていたみたいで、ルナさんがすぐにお茶を淹れてくれる。

 最近はルナさんも上達してきているようで、流石にメイには及ばないけど普通に美味しいお茶が出てくるの、成長が窺えて微笑ましいわ。


「ルジェが起きたら伝えて貰える? 写真の扱いは事前の打ち合わせ通りになったって」

「分かりました。他に何かありますか?」

「ダートに写真を渡してきたわ。凄く喜んでいたわよ。あとジョイスがスラムを離れて少し支配領域内も危険度が増してるから、もうしばらくここで生活してくれって。会いに行けなくてゴメンって言ってたわ」

「お兄ちゃんは――元気でしたか?」

「ウチの妹に惚れたら殺す、なんて言うぐらいには元気よ。はいこれダートのネガ」


 メイが真っ黒な包みからガラス乾板を取り出すと、それを窓からの採光に翳したルナさんがフッと小さく笑う。


「お兄ちゃん、わざわざ仏頂面で映ってる」


 色合いは白黒逆転していても、慣れていればネガから十分に読み取れるからね。

 ただまあ定着前だから長く光に翳していると色合いがおかしくなっちゃうけど、まだ感光剤の性能が低いので短時間なら問題は無い。


「一番楽な表情をしろって言ったんだけどね。わざわざその表情を維持するとか、ダートらしいわ」

「お兄ちゃんはよくある獣人気質ですから」


 ネガを確認したルナさんがそれを「定着前」と書かれた遮光ボックスへと移す。

 研究したがりアルジェのせいで、最近は定着と現像はすっかりルナさんの仕事になっちゃってるからね。


「よくある獣人気質って?」

「自分より器が大きい相手の言うことにしか素直に従わないんです」


 なるほどなー。ダートのクソガキ気質ってこの世界ではどうなるのかと思ってたけど、そういう解釈になるのか。

 王器の競い合いをしている獣人は自分より器の大きい相手の言うことしか素直には聞かないってわけね。対等であっても駄目。大きくないといけないのね。


 ってあれ? その割にはよくダート、私が提案した割と博打な案に素直に乗ったわね。

 まあ部下の未来もかかってる現状で我儘を貫くような安い男でもないか。


「……アーチェ様は、ずっとお兄ちゃんの味方になってくれますか?」


 ルナさんが探るようにそう問うてくるけど、悪いがそれは愚問って奴さぁ。


「そこは心配しなくて良いわ。私はダートと話を詰めて相互の利益を確認しているし。ダートが約束を守る限り、私がダートを裏切ることはないわよ」


 なにせルイセントがプレシア親衛隊からほぼ外れかけてる現状、ダート抜きでは魔王討伐難度が激上がりだからね。

 どうやったって私がダートを裏切る理由はない。そこは信頼して欲しいものだけど、この根拠は他人には話せないからなぁ。


「ありがとうございます。お兄ちゃんは考えなしにあれもこれも抱え込む人だから、アーチェ様みたいに頭のいい人が支えてくれるなら安心です」


 そうやって見境為しに抱え込んだ最たる物が自分だ、とルナさんは言いたいのだろうけど。


「一つ一つ切り捨てていく人生より、一つ一つ拾っていく人生の方が最終的には豊かになるものよルナさん。ダートが自ら拾って手放さないものはダートにとって捨てがたい、何より大切な宝物なのよ。それを抱えて死ぬなら本望だと思えるぐらいに大事な、ね」


 そうとも。今の私がお姉様やアイズ、ケイルの命を抱えて生きているのと同じ。

 それを抱えて進みたいから。捨てるぐらいなら死んだ方がマシだから捨てないんだ。それだけはルナさんにも理解して貰いたい。

 貴方はダートの妹で良いのだと。他ならぬダートがそれを望んでいるのだからと。


「だから貴方は安心してダートに甘えていいのよ。貴方は他ならぬダート自身が、捨てたくないと願った重荷なのだから」


 そう伝えると、


「アーチェ様はこの短期間ですっかりお兄ちゃんを理解されてるんですね」


 ルナさんが親愛のこもった笑みで私を見やる。その信頼がちょっと眩しいわ。


「ジョイスにこっそり助言を貰えたからね。なんとか理解が及んだ、といったところよ」

「ジョイスさんから助言を貰えるだけでも凄いです。普通はジョイスさん、お兄ちゃんが言う以上のことは言いませんから」


 マジでか。ジョイスってば完全にダートの陰に徹してるのね。

 器で語る獣人の関係って凄いわ。私にはちょっと理解できないなー。


「ですからアーチェ様、私はいつでもアーチェ様をお姉様と呼べる日を待ってますから!」

「え? あ、はい。頑張ります」


 おおう、ルナさんは私を派閥の主と仰ぐってか? それはそれでダートと揉めそうだから勘弁して欲しいところだけど。

 でもこのキラキラ笑顔にNoを叩き付けるのは気が引けるしなぁ。ま、そういうのはダートに任せましょ。




――――――――――――――――




 何とはなしに一人、学園へと足を向ける。

 学園もまた王城の敷地内に存在していて、象牙の塔魔術研究室、王城及び王国議事堂、学園の三尖塔が王都の中核を成す三つの柱と言われている。


 象牙の塔魔術研究室の研究室長は自分の部屋を研究室内に持っている。彼らは国王に才能を認められた特別な貴族だから王城の敷地内への居住を許されているわけだ。

 対して学園に入学した生徒は普通の爵位なし貴族だから、皆貴族街にある冬の館タウンハウスから毎日学園に通うことになる。


 要するに今年十一歳の私は次にアンティマスク領にある夏の館カントリーハウスへ帰ったら、次の三年半はずっと貴族街の冬の館での生活ということだ。

 もっとも貴族街に一戸建の冬の館を持つことを許されているのは男爵家以上の貴族のみ。だから騎士爵家の子女とかは貴族街か、下町にあるアパルトメントを借りて生活する事になるのだけど。


 下校の時刻になったのだろう。学園からはポツポツと下校生が校門から歩み出て来る。


 学園の制服は指定のオーバーコートのみで、しかも行事以外の毎日の着用は義務づけられていない。唯一、校章が刻まれた学年別に色が違うブローチだけが着用必須。

 なので学生たちはめいめいの着こなしで学生に通っていて、だから服装でだいたいの地位が判別できる。

 染めの色が鮮やか、かつ仕立ての良い服を着ているほど大貴族で、染めの薄い質素な服に制服のコートを羽織っているのが下位貴族だ。要するに制服のコートっていうのは私腹が質素な子女でも恥をかかないように、という側面の方が強いわけさ。


 私は伯爵家だからコートを羽織る必要もないだろうけど、前世の高校時代が懐かしく思えるから多分制服のコートを着るのだろうな、と思う。

 お母様が私のために用意してくれた服はメイの時代の流行だから一時代遅れていて、それを誤魔化す意味もあるけれど。


 帰路を進む学生たちを何とはなしに路側で眺めやる。

 学生たちは侍従を連れている者も一人の者もいて、だけど別段それはおかしな事じゃない。学生時代は貴族街なら侍従を連れずに行動する者も多く、実際私も今は一人だ。


 我ら王国を守護せし誇り高き貴族なれば、貴族街内部での犯罪はそうそう起こり得ない。

 安全なのだ、下民がいないこの貴族街は。


 王国貴族というのはその全員が現神降臨の儀を受けた魔術師であり、同時に貴族として国を守る責を負っている。

 学園卒業生は三年間貴族の義務として徴兵され、軍属として働かなければならないのはその建前があるからだ。


 目の前を行く学生たちの現一年生とは在学期間が一年被り、だから対魔王戦線が形成されれば従軍期間も共有する事になる。つまり戦死する可能性があるわけで。

 現二年生以上はその頃には従軍期間が終わってるからおめでとう、騎士団所属を選ばなければ戦は回避できるだろう。


 ただいずれにせよこの先の私とお父様の勝敗時代でここにいる学生たちの死傷者数が変動するわけで……気の滅入る話ね。

 これがゲームだったら兵の損失なんてただの数字だけど。


 いや、もしかしたら今私がいるここは超高性能な演算機が作り上げた仮想現実の中で、これも大規模なゲーム世界って可能性も無きにしも非ずだけど……

 それ言い始めたなら前世の地球だってそうだった可能性も完全に否定できる根拠なんてないし。


 コギトエルゴスム、我思う故に我あり。

 誰がなんと言おうと私たちはここにいて、ここで人として生きているのだから。


「おい、そこのガキ。今俺を見て笑っただろう」


 だからこんな典型的な絡み方してくるクソガキすらも愛おしいというものだ。




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