■ En1 ■ 閑話:グリシアス Ⅰ




 ただのアイズがアイズ・イナードヴァンとなり、そしてアイズ・アンティマスクと再度名を変えてから二ヶ月が経過した。

 グリシアスの期待通り、アイズの魔術師としての性能は現神降臨の儀を受けていないにも拘わらず他の氷神加護者と一線を画す実力を誇っていた。


 唯一欠点を挙げるとすれば魔術の精度が荒く、一点突破より面制圧を主体とした雑さが見受けられるものの、それは大した問題ではない。

 己の命令に従う強い魔術師、強い跡取りであるということ。それだけがアイズにグリシアスが求めるものである。


 そこそこの出費を強いられたものの、グリシアスにとっては出費以上の買い物であったと満足のいく結果である。

 まことにあれを庶民と見下して懐柔など考えもしなかったイナードヴァンの愚かさがよく分かるというものだ。


 もっともまだ力を持て余しているのかアイズの魔術制御に難があるのは事実で、時折館内でも魔術を暴走させてしまっているようだが、


「思ったより上手くやる」


 茶会用のソファーとテーブルが設置されている己の執務室、そこで香ばしい芳香を漂わせる珈琲を口に運びながら、そうグリシアスは独りごちる。

 グリシアスがそう評したのはアイズのことではない。

 むしろ大して期待していなかった実子、血を分けた娘であるアーチェ・アンティマスクの方だ。


 何を言っても頑なに侍従を付けようとせず、


「父上は僕――いえ、私に侍従を殺すことを望んでおられるのですか」


 と呪うような声で己の言を拒絶し、言うことを聞かなかったアイズには流石のグリシアスも辟易したものだ。

 アイズの自己分析によると暴走した魔術が侍従を殺してしまうことがほぼ確実なようで、そう言われてはグリシアスも返答に困ってしまう。

 無理に侍従を付けさせたとて、その侍従が本当に死んでしまってはグリシアスとしても実際頭を抱えてしまうのであるし。


 社交界では『淑女嫌いのアンティマスク』などと陰口を叩かれるグリシアスである。徹底して無駄を嫌うのは他人に対してのみどころか、己に対して最も強く適応される。

 最初から多少の不具合があることは承知の上でグリシアスはアイズを買い付けたのだ。

 その点を無視して「殺さないようにお前が気を使え」などと言うのは無意味極まりなく、出来ないことをやれと命じるのは命じる側の怠慢でしかない。


 だからこそダメ元で娘に課題を振って見せたのだが、


「まさか本当に言い含められるとはな」


 あの頑なだったアイズに要求を呑ませ、しかも最近は少しずつ魔術の暴発する回数も少なくなってきている。

 もっともまだ侍従を連れ歩くまでには及ばないが、状況の改善自体は喜ばしいことだ。


「お嬢様はどうやってアイズ様を手懐けたのでしょう?」


 傍ら、ソファの後方に控えている懐刀のジェンドがしきりに首を傾げているが、


「まだ母親が恋しい年頃だということだろう」


 ほんの僅かにだがグリシアスはアイズの心境を感情ではなく知識で看破していた。

 貴族家と違い、土地も部屋も余裕がない庶民は寒さが厳しいアルヴィオス王国の冬を越すために固まって生活するのが普通である。


 薪代も馬鹿にならないために火元を一つに絞る生活では、憩いや睡眠の場もまた一つになる。それが庶民の距離感なのだ。一人に一部屋と個別のベッドが与えられる貴族とは違う。

 庶民としての生活などしたことがないグリシアスではあるが、庶民が一年間に消費する物資を計算するためにその暮らしぶりを知識として掌握している。


「アイズが望む距離感にピッタリと収まってみせた。あれは私にはできん芸当だな」


 なお庶民の生活を知識程度でも知っているというグリシアスは、貴族としてかなりの異端に属する。

 大半の貴族は庶民がどう生活してるかなんてまず知ろうなどと考えもしないのが普通なのだ。


「しかし、どうしてお嬢様にはそれができたのでしょう?」


 だが、ならばどうして生粋の貴族で、しかも庶民の生活など知りもしない僅か七歳のアーチェにそれができたのか。

 それはグリシアスにもいまいちよく分からないが、


「あれはあの非合理の塊であったマーシャの娘だ。それが今回は上手く働く部分もあったということだろう」


 舌の上を滑り抜けた言葉は珈琲のそれよりも苦々しい味がした。


 僅かにも興味を抱けなかった、己の妻であった女をグリシアスは思い出す。

 愛だの優しさだのといった不合理な感情に支配されていたあの女のことなど、もう思い出すこともないと思っていたのだが。

 確かに庶民の子供相手にならあのマーシャの気質は噛み合いもしよう、と得心がいくというものだ。あまり面白い話ではないが。




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