■ EX2 ■ 閑話:アイズ・アンティマスク Ⅲ




「ならば生きなさいアイズ。いつか貴方にも守りたいと思う人ができるから」


 いつかお前に相応しい誰かが現れると、姉が言う。

 まるで未来でも見てきたかのような、七歳児とはとても思えない落ち着いた口調で。


「どんなに嫌でも貴方には私の弟として振る舞って貰います。付き合いますから訓練なさい。見ての通り私にならいくらでも攻撃して構いませんので」


 アイズの内心を見透かしたかのように言う。

 お前が私を姉と認める必要はないと。

 その思い出を大切にしろとばかりに。


 しかしこの家で暮らすなら、アイズにもまた「私を姉と認めたかのように周囲を欺け」と突きつけて。


「そんな、そんなこと言って……でも、お前もどうせ僕を捨てるだろうに!」


 そんな言葉が己の口から零れたことにもっとも驚愕したのは他でもない、アイズ自身だった。

 何故ならそれは自分がアーチェを家族と受け入れた、寂しさから心のどこかで新たな家族を求めてしまっていたことを端的に示す言葉でしか無かったのだから。


 寂しかった。

 家族が恋しかった。

 アイズ・アンティマスクは温かい世界に帰りたかった。

 ここは自分の居場所じゃないと。

 あの時奪われた幸福な我が家に、ずっとずっと帰りたいと。それだけが心の中に巣食っていた。


「ならばアーチェ・アンティマスクの命と誇りをかけて約束しましょう。貴方が私の弟になるなら、貴方が死ぬまで私は貴方の姉でいる。貴方がお父様に捨てられても、私がお父様を捨てて貴方と共にいるわ」


 だから悪党であるはずの彼女が語ったその一言を、アイズはどうしようもなく無視できずにいる。


 彼女は、アーチェ・アンティマスクはアイズに自分を姉と認める必要はないと言ったその口で、自分はアイズを弟と見做すと宣言したのだから。

 それは今は亡き家族を大切にしたいと願うアイズを、彼女が一方的に許容したということだ。

 アイズの内心を、全て慮った上で。


「そうね。貴方は将来有望な力の持ち主で、私は外れ。お父様が貴方を捨ててもきっと次の貴族が貴方に群がる。そこに私は必要とされないから……うん、お父様に捨てられたらお金盗み出して、二人でどっか遠くに逃げないとね」


 わけが分からない。アイズはアンティマスク家の血を引いていない養子であるというのに。

 その養子のためにアンティマスク家の長女にして家長グリシアスの実子であるアーチェ・アンティマスクはその立場を擲とうと言う。


 そんな、そこまで思い切った行動が取れる人をなんて呼称するのか。

 それ程の愛を注げる存在をなんと呼称するか、アイズは既に知っていた。


「貴方の心の中にある家族像を私たちで上書きしたくないのでしょう? だから貴方が私を姉と思わなくても構わない。だけど他人からそう見られる程度の我慢は覚える必要があるのよ」


 それができる人をこの世の中では――


 家族と、言うのだろうと。


 そう認めてしまったアイズの視界の中に、忽然として女性ものの靴が姿を現した。

 それが何故現れたのか、に思いを馳せて、それが既に『死体未満の物であるから』視界に映ったのだと理解したアイズは一瞬にして己の凶行に打ち震えた。


 氷らせられた足で、物になりかけてる足でアーチェ・アンティマスクはアイズとの距離を詰めているのだ。

 それを理解したアイズの内心に巣くっていた氷壁は粉みじんに砕けて、雪解け水の如くアイズの心から溶けて流れ去ってしまった。


 この瞬間に、アイズは負けたのだ。

 アーチェ・アンティマスクに。

 あるいは、相互理解できる家族が欲しい、己を見守ってくれる人が欲しいという己の心の弱さに。


 アイズは負けた。されど、


「……無理をしないで下さい、姉上」


 不快感はない。後悔もない。

 だって、ほら。

 彼女を、アーチェ・アンティマスクを家族と認めても、姉と呼んでも、心のどこも軋まない。悲鳴の一つもあげはしない。

 だって、なぜならこれまで誰一人、自分を認めた三人目の父ですらアイズを認めても「理解しようとはしなかった」から。


「見せかけだけでも姉弟になるって、そう関係芝居を打ってくれるって。納得してくれたって思ってもいいわね?」

「……はい、姉がもう一人増えたと思えばいいのですから。これまでの思い出を、無理矢理上書きしなくとも」


 そうとも。昔の姉を今の姉で消してしまう必要はない。

 姉が一人増えただけだ。それを単純に喜べばいい。兄弟は減ることもあるが、増えることだってある。それ自体は極めて普通のことではないか。

 ……この際、増える兄弟は普通は年下だという点には目を瞑れば。


 それにこの人は前の父とも今の父とも違う。アイズを理解した上で、自分を家族と思わなくていいと。

 その思い出を大切にしていいと言い切って、それでもアイズの内心に食い込んできた。

 だから、


「とはいえ姉上だとちょっと硬いのよねぇ。わたしも姉さん呼びにできない?」

「善処、します。それと、すみませんでした」


 アイズにとって、アーチェ・アンティマスクは血の繋がった姉ではない。

 だけどこれ以上ないほどに大切な、アイズが知る形の家族になってくれようとした人だ。


 この人に対して真摯でいたいと、そう思う。その思う己の心を、ねじ伏せられない。


 家族ではないのに、家族以上の愛を注ぎ込める相手。

 それをなんて呼ぶか、未だ年若いアイズはまだ知らないが――




「あの、姉さん」

「なに?」

「その、何で姉さんはいつも後ろから抱きついてくるんでしょう」

「んー、視覚対策」


 今のアイズにはアーチェが見える。

 そう、アーチェ・アンティマスクの細い腕が、今のアイズには見える。

 正確には接触して、皮膚と鼻と耳で姉の存在を感じている時だけ、アイズにはアーチェを視認することができる。


 灰色の髪をリボンで結わい、尻尾のように垂らした髪型、牡丹色の瞳。

 貴族家の令嬢、故郷の幼なじみたちではとうてい敵いっこない美しく整った顔立ち。

 思わず見とれてしまうような和やかで邪気のない、生粋の貴族なのに何故か庶民であるアイズに懐かしさを抱かせる立ち居振る舞い。


 己に向けられる底抜けに明るい笑顔を見ると、何故か胸が落ち着かなくなる。鼓動が早くなる。

 汚泥でない、ちゃんとした人の顔が見れて嬉しい筈なのに、少しだけ直視するのに気恥ずかしさを覚える。


 今の自分と姉との関係を説明する言葉を、アイズ・アンティマスクは持ち得なかったが――


「おはようアイズ。新しい朝が来たわね! 希望の朝だわ!」

「おはようございます姉さん」


 今のアイズ・アンティマスクは仄かな幸せを胸に生きることができている。

 これから先も、この人と一緒に生きていきたいと。それは幸せなことだろうと信じることができる。

 もっとも、


「でも、その、すみません、どこら辺が希望の朝なのか分かりません。普通の朝と何か違うのですか?」

「あー朝にかかる枕詞だから気にしないで」

「は、はぁ……」


 姉は時々わけの分からないことを言うので、それに振り回されることになるのだろうが。


 それでもアイズ・アンティマスクは今を生きていることが嬉しくて、何より幸せだと。


――助けてくれてありがとう。母さん。幸せになります。貴方がそう願ってくれたように。


 命を懸けて己を救おうとしてくれた母に、そう誇ることができると。

 確かにそう、感じているのだ。




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