■ EX2 ■ 閑話:アイズ・アンティマスク Ⅰ




 そうしてアンティマスク家の養子となってもやはり、アイズは期待らしい期待を持てなかった。


――誰も彼もが真っ黒じゃないか。


 館の中にいる誰もがやはり、いや、新たな父アンティマスク伯ほどではないにせよ黒く染まっていて。

 あるいは自分が誤認識しているのではないか、と館の外に目を向ければ、そこにいるのは精々が灰色程度。

 要するにここにもまともな人間はいやしないのだと分かってしまうと、心が折れかけてしまう。


 食堂での一人の食事を終え、湯に浸からされ身なりを整えられ、父の執務室へ案内されると、


「お前の仕事は二つ。魔術を制御する術を学ぶこと、貴族の立ち居振る舞いを覚えることだ」


 真っ黒の汚泥が机の向こうからそう一方的に命令を投げつけてくるが、しかしその声音は極めて平静で、それが混乱に拍車をかける。

 ここまで真っ黒なのに悪意が一切向けられない、というのはアイズには理解しがたかったが、いずれにせよ言葉の上では無茶を突きつけられているわけでもない。


 この三人目の父におかしくなった目のことを告げるべきか否か、アイズは迷った。

 多分、人を人と認識できない今の状態はいずれ周囲に不都合をもたらすだろうことはアイズにも予想できた。


 だが、父の言いつけを破って魔術を使ってしまったから、アイズは住み慣れた村から引き剥がされこんな所へ来てしまった。

 普通でないことをすると、知らない場所へ連れて行かれるという思いに捕らわれたアイズは結局口をつぐんだ。


 代わりに、ごく基本的なことを問う。


「父上、質問してもいいですか?」

「構わぬ。むしろ分からぬことは早めに尋ねろ。以後私が忙しい時は家庭教師かこのジェンドが答える。で?」


 父上、と呼んでも拒絶されない。それだけでも前進ではあるのだろう。


「食事は、家族で取らないのですか?」

「私は忙しいので食堂には行かんが、お前が望むならアーチェと取るがいい」


 アーチェとは誰だろう、とアイズは一瞬考え、そう言えば姉がいると聞かされていたことを思い出す。

 多分、この館内で一度はすれ違ったりしているのだろうが――アイズの視界には黒い汚泥しかこれまで映っていなかった。

 なら、姉もやはり黒いのだろう。


「姉上とは、仲良くした方がよいですか?」

「面倒ならせずとも良いが諍い合うのは止めろ、体力と時間の無駄だ」


 そう言質を貰ってアイズはホッと胸をなで下ろした。

 アイズにとって父も母も姉も、あそこで死んだ家族が全てだった。

 生きるために父は上書きせざるを得なくなったが――母と姉だけは、思い出の姿のままで取っておきたい。


 黒い汚泥を、姉と呼んで。

 呼んで、認めてしまうことで。

 ちょっと鬱陶しく口うるさかった本当の姉を記憶から消し去ってしまうのはできる限り避けたかった。

 それはアイズにたった二つだけ残された、替えの効かない宝物だったからだ。


「僕は貴族のことを何も知らないので、多分迷惑をかけると思います」

「承知の上だ、お前が十二歳になるまでは待てる。それまでに学ぶべきを学べ。教師は付ける」


 十二歳で何があるのかと尋ねれば、十三歳から学園に通う必要があるとのことだそうで、そこが実質的なタイムリミットらしい。

 まだ五年ある。であれば、何とかやれるかもしれない。

 母が願ってくれたように、生き延びて、幸せに。


 幸い、父から要求されたことに関してはアイズは感情を殺して取り組むことができた。

 貴族家アンティマスクの長男として魔術の腕を磨くこと。貴族としての作法を身につけること。

 元々勉強は嫌いではあったがそんなことは言ってられないし、頭を新たな知識で埋め尽くすことで余計な思考から逃れることができた。

 もっとも、ことあるごとに父が「侍従を付けろ」と言ってくることには辟易したが。


 父が侍従候補として並べ立てた連中は、やはり父に劣らず真っ黒だ。

 忠誠を尽くします、などと並べ立てられた言葉が真実ならばこうも黒くは見えはしないだろうに。


 人が既に人として見えないアイズにとって、既に殺人は忌避すべきものではなくなっていた。それでも、それが人であることを頭では理解している。

 だからこうも黒い人材とはいえ、己の制御不能な反射的魔術に巻き込んでしまうことには抵抗を覚える。


 自分の側にいなければ死なずにすむだろうに、どうして人を側に置かねばならない?

 そう問うと父が軽く溜息を吐いてしまうことは理解していたが、それでも人が死ぬよりかは死なない方がいいに決まっている。


 その、筈なのに。




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