■ EX1 ■ 閑話:アイズ Ⅲ
そうして馬車で護送され、身形を整えられ謁見の間に連れ出されたアイズは、
「黒い……」
椅子の上にわだかまる黒い汚泥のような塊から思わず目をそらしてしまった。
これまで何人かの貴族を目にしたようだが、その中でも群を抜いて真っ黒なソレが、己の父だという。
「跪け」
そう椅子の上のそれが何かを言ったが、アイズは呆然とその場に立ち尽くしている。
命令を無視したわけではない。
ただ六歳の庶民であったアイズは跪く、という言葉の意味が分からなかっただけだ。
「どうした。何故跪かぬ」
「ひざまずけ、とはなんでしょうか?」
そうアイズが返すと、男は多分何らかの反応をしたのだろう。
だが男の姿が見えないアイズにとって、それは何らの対応ができるものでもない。
「所詮は庶民か。まあよい。だれぞ、此奴をそれなりに躾けよ。せめて人前には出せるようにだ」
そう言い捨てた椅子の上の汚泥が、酷く緩慢な動作でその場から去ろうとする。
どうやら貴族における親子の会話というのは酷くあっさりとしたものであるらしい、とアイズは理解せざるを得なかった。
だが、その前に一つ、尋ねておかねばならないことがあった。
「父上」
そう呼び止めると、真っ黒な汚泥がピタリと足を止める。
「貴方が私の父上で、よろしいのでしょうか?」
周囲からざわめき声が上がったのをアイズの耳は知覚したが、それ以上のことは分からない。
ただ、あまり歓迎されていないことだけはアイズにも理解できた。
――お貴族様に攫われてしまうからね。
あの時、攫われると表現した父の意図が少しだけ分かったような気がした。
やはり、魔術は父の言うとおり使うべきではなかったのだ。
父の言いつけを破ってしまったからアイズは住み慣れた村から引き剥がされ、こんな所へきてしまった。
これなら、あの時家族と一緒に死んでおいた方が良かったのではないか。そんな風にさえ考えてしまう。
だが、母が、母は。
――生き延びて、幸せに。
あの時母は己を助けるために死んだのだ。
自らもあれだけ殴られて痛い思いをしたであろうに、それでも自分を逃がすために強盗に挑みかかって、そしてアイズの代わりに死んだ。
であれば、生きなくてはならない。母が最後にそう望んだように。
環境が辛いぐらいで弱音を吐いていたら、母は一体何のためにあそこで死んだのか。
だから、生きて、幸せにならないといけない。そのためならば、なんだって――
「汚らわしい。私腹を肥やし上に媚びへつらうしか能がない徴税人の息子風情がこの私を父だと? 虫酸が走るわ!」
……今、こいつはなんと言った?
この、あの時襲ってきた強盗たちとさして変わらぬ――否。あれよりももっとどす黒い汚泥如きが。
よりにもよってあの父を馬鹿にしたのか? 清廉であった父を、この薄汚い悪党が!
あ、と思った瞬間には全てが遅かった。
アイズの足元から走った冷気は一直線にその何とかという男爵目指して迸り、
「なんと、血迷ったか!?」
その途中で割り込んできた、多分護衛か何かよって遮られて止まる。
その後も周囲が何か騒いでいたが、もう今さらアイズは何かに反応するのも億劫だった。
自分でも拙いことになったとは思っている。だが、あれはアイズが意図的に行使した魔術ではなかったのだ。
だがそれを証明する手段などなく、然るに今のアイズは「庶民を息子へと召し上げるような寛大な貴族に刃を向けた悪党」でしかないのだから。
何にも反応することなく牢の中で暮らすこと数日。
自分から死ぬわけにもいかず、ただ摂取と排泄のみを続けていたアイズの前に、
「これがそうか」
「はい」
一人の男が現れたが、やはりその色は男爵某のそれと殆ど変わらない程に真っ黒で。
「アイズ・
どうやら処刑の運命を免れ、またしても父が変わったらしい。
期待は、その真っ黒さからして一切持てなかったが、
「貴方が私の父上で、よろしいのでしょうか?」
そう尋ねてみれば、
「そうだ、君に貴族として生きる気があるならな。無いのであればここで死ぬといい。好きな方を選べ」
今度の父親は、しかし二人目の父親よりは少しはマシなようだった。
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