八坂木家の女中
うめ屋
*
着物を着がえ、たすき掛けすると背筋が伸びる。
朝一番の清冽な空気のなか、こうして身支度をととのえるこの瞬間を私はもっとも愛している。夏ならば硝子窓の外はすでに明け初め、冬ならばまだ星々がまたたく闇の
米を炊く用意をし、その合間に味噌汁と御菜をつくる。味噌汁は豆腐とお揚げ、御菜は鮭の塩焼きと青菜のお浸し、きんぴらごぼう。鮭は小骨まできちんと除き、きんぴらに入れる人参は細く細く刻んでおく。こうしないと旦那様は召し上がってくださらないからだ。
御菜の支度が済んだら箱膳や食器を磨き、できたての朝餉をよそって旦那様の仕事部屋にお持ちする。襖の前で膝をつき、ほとほとと叩きながら声をかけた。
「旦那様、おはようございます。朝餉をお持ちいたしました」
返答はなく、襖の向こうはしんと静まっている。いつものことなので、私は気にせず失礼しますと襖を開けた。
途端に立ちのぼる膠や顔料や油の濃く深く重い匂い。湿土にも似た墨の気配。薄暗い部屋の壁いちめんにはぎっしりと棚が据えられ、古い巻子本や草子や画帳が乱雑に詰め込まれている。床には毛氈が敷きつめられ、ここにも画帳や紙束が積み重なり、絵筆や絵皿や吸い取り紙がばらばら飛び散る。
その隙間で身をこごめるようにして横たわる人影がいた。私は画道具を踏まぬようにしてその影を素通りし、部屋の大窓に引かれた
「さ、旦那様。朝餉のお時間でございます。きちんと召し上がらねばよい絵をお描きになれませんよ」
しかし芋虫は、もぞもぞと身じろいで何ごとかぐずる。手足を丸めて眠りの淵へ舞い戻ろうとなさるので、私はその首根を掴んで起き上がらせた。
「おはようございます、旦那様?」
耳元でひとことずつ区切りながら大声を出すと、旦那様は瞠目して犬のようにぶるりと胴震いなさった。
それから私が目の前にいることに気づいてまなざしを向け、その起こし方はよしてくれよ、と眉間に皺を寄せる。手が床を探してさまよう前に、私は近くに放られていた眼鏡をお渡しした。
「ありがとう」
眼鏡をかけた旦那様はまだ目をしょぼつかせながら立ち上がる。私は廊下に出していた箱膳を持ち、隣の間の襖をお開けした。
そこは本来の旦那様の寝間である。こちらもあふれ出した画帳や草子がうず高く積み重なっているが、描きかけの絵たちがないだけましだ。私は崩れた草子の束を整え、空いたところに箱膳を据えた。
「御用がございましたらお呼びくださいまし」
「ああ」
旦那様が味噌汁をすすり始めたのを見届け、私は礼をして襖を閉める。それから、よしと掃除道具を取りに勝手口へ向かった。
そして私は、そんな旦那様をお世話申し上げる八坂木家の女中である。
*
旦那様が朝餉を召し上がっている間に、私は洗濯に取りかかる。板に衣をすりつけて洗ってゆけば、石鹸のさわやかな香が広がった。なんともすがすがしい瞬間だ。鼻歌をうたいながら次々と洗って積み上げ、水切りをして干してゆく。
きょうはよく晴れ、風も強くないおだやかな日になりそうだ。私はずらりと並ぶ洗濯物を眺め、ひとり満足した息をついた。
そのあとは家の掃除である。玄関は掃き清めて打ち水をし、畳も掃いて乾拭きをする。部屋の調度品にははたきをかけ、柱はぬか袋で磨く。障子の破れや電球の切れがないかを確かめ、足りないものは買い出しの一覧に書きとめておく。
それから床の雑巾がけをしているとき、遠くでちりんちりんと鈴の音が鳴った。旦那様からの呼び出しである。私は雑巾を置いて立ち上がった。仕事部屋の前まで向かい声をかける。
「旦那様、ご用事でしょうか」
「ああ、入って」
失礼しますと襖を開けると、旦那様は毛氈のうえで画紙に向かっていらした。部屋はすっと冷えた晩秋の朝のような鋭い気配に満ちている。筆を握っているときの旦那様はいつもこうだ。旦那様は怜悧なまなざしで私をふりむいた。
「そこにこう、斜めに立て膝をして座って、扇をかまえてもらえるかい」
「かしこまりました」
私は旦那様の正面で言われたとおりの姿勢をとる。旦那様はそれをさっさっと描き写してゆかれる。ときおり、腕の角度をもう少し高くとか、顎を引くようにとかいう指図がある。
これが私の、女中としてのもうひとつの仕事である。
美人画家として名を馳せる旦那様は、女中を募集するときにひとつ条件をおつけになった。絵の
こうした条件であるから、当初は女中の募集というのは隠れ蓑で、ほんとうは旦那様の嫁を探しているのではないかと噂にもなったようだ。
なにせ旦那様は、このはるまちでも五本の指に入る豪商、八坂木家の血筋につらなる御方である。
分家の三男坊で、若くして画才をあらわしこの画室兼居宅をかまえられた。普請にあたっては御父君である大旦那様から多大な援助があり、そのほか日々のこまごまとした暮らし向きにおいても八坂木家からの力添えがある。そうした御家に年ごろの女中を雇おうというのだから、世間が勘ぐるのも無理はなかった。
しかし旦那様は生きている女人に関心がなく、というより絵の題材としてしかご覧になっていないふしがある。ゆえにこそ、私はただの女中でしかありえないのだ。もちろん、外のひとびとがいろいろと邪推しているのは知っているけれど。
静まり返った部屋のうちに、しゅ、しゅ、と筆のすべる音がつづく。私は旦那様の頭のなかで、いまごろどんな構図が組み立てられているのだろうかと想像する。
旦那様の描かれる女人は絵のなかでしかありえない幻想的なうつくしさと、同時に生身よりも生身らしいしっとりとした肌の熱に満ちている。旦那様の絵をご覧になって、この女人を抉り出して我がものにしたい、とまでおっしゃった客人もいるという。
私も旦那様の絵は好きだ。
女の私ですら惑わされるほどの色香と清純、そしてなつかしい静けさに満ちた絵のなかにたたずむ女人たち。葵。井筒。羽衣に桜川。あまたの古典に着想をえた絵姿はつつましくも雅やかで、いつまでも眺めていたくなる気品にあふれている。
しゅ、と筆の流れが止まり、旦那様が小さく肩の力を抜いた。汗でずれた眼鏡を押し上げながら笑む。
「ありがとう。もう下がっていいよ」
「お粗末様でございました」
私は頭を下げ、部屋の隅に置かれていた箱膳を持って退いた。その背後でまた筆や紙を繰る音が聞こえ始める。私は足をしのばせてお勝手へ向かった。
それから箱膳を洗っていると、玄関で訪ないの声がした。独特の押しと不遜さを帯びた声色に、また売り込みの画商か出版社かだろうと当たりをつける。私はため息をついて着物のたすきを締め直した。
玄関に出てみれば、案の定くたびれた画商風の身なりをした男が名刺を差し出してくる。私はちらとも中身を見ずに告げた。
「恐れ入りますが、絵のお取引については八坂木家をお通しくださいますようお願いいたします」
「イエ、あちらにもご挨拶には伺ったんですがね、やはり絵のことは直接先生とお話しないとと思いまして」
どうせ八坂木の家でにべもなく叩き出されてきたのだろう。こういう輩はよく現れる。私はあくまでもきっぱりとお断りした。
「生憎、こちらではお取次ぎしておりません」
「ッて言ったって、ここ先生のお宅なんでしょう? ほんの一瞬、五分でもいいんでご挨拶させてもらえませんか」
「面会には八坂木家からの紹介状をお持ちください」
「いや、それじゃ埒が明かないンでこちらでお頼みしてるんですよ。お願いしますよ」
「申し訳ございませんが、お取次ぎはできません」
「……話のわからん女中さんだなあ」
男が額に青筋を立てる。と同時に先生、と叫んで上がり込もうとしたので、私は玄関脇にあった箒を薙刀のごとく突きつけた。びゅっと風が唸りを上げる。思わずのけぞってたたらを踏んだ男を前に、私は冷ややかな笑みを浮かべてみせた。
「どうぞ、お引き取りくださいませ?」
「――ッ!」
男が顔色を赤と白のまだらにする。それから醜く唾を吐き捨て、この女郎め、と私を罵り出ていった。
その姿が見えなくなるのを見届けて、私は仁王立ちの姿勢を解く。ふっと嘆息して吐き捨てられた唾を清めた。玄関に塩を撒き、もうああした輩が来ませんようにと念じる。
私が旦那様の妾だと思われていることは周知の事実だ。傍から見たらそう思うだろうとも納得がいく。けれども、私は確かに大旦那様やその奥様の信頼を勝ち得て、この八坂木家の女中を勤めているのである。そのお心遣いを穢したくはなかった。
もともと私は偏屈な曲がり者で、女学校を出たあと唯々諾々と親の言うなりに結婚するなどまっぴらだった。
なぜ女は学べないのか。学んでも、それを活かせず家庭に入らねばならないのか。私の望みは、独りで生きて独りで死ぬこと。男なら叶うそうした道を、どうして女はあきらめねばならないのか。
そんなことをさんざん父母と言い争い、頬が腫れるまで殴られてもあきらめなかった。終いには蔵に籠められ無理やり嫁がされそうになったので、着の身着のまま逃げ出して街を走った。その途上で、八坂木家に女中募集の張り紙が出ているのを見つけたのである。
薄汚れ、手足もぼろぼろになって戸を叩いた私を、大旦那様と奥様はあたたかく迎えてくださった。私の若く青臭い憤りを受けとめ、私の父母とも話をつけ、八坂木家の女中として働けるようにしてくださったのだ。進捗の気風にあふれた御二方は、若い女人が自立するのはよいことだとおっしゃった。
――我々はね、そうした若者を少しでも援助していきたいと考えているのだよ。
――草太朗は家のことがからっきしでね、貴女のような方が手伝いに来てくださると嬉しいわ。
そう微笑んでおっしゃる御二方を見て、私は一生このご恩を忘れまいと唇を噛んだ。私は深く頭を下げ、身命を賭してお仕え申し上げますと誓いを述べた。
ちりんちりん、とまた遠くで鈴が鳴る。私は昼餉の支度の手を止めて旦那様のお部屋へ向かった。
「旦那様、お呼びですか」
「うん、たびたび悪いね。これ、郵便出しておいてくれるかい」
「承りました」
旦那様の脇に置かれた茶封筒を預かって会釈する。旦那様は、先ほど私を座らせて描かれた素描をふた通り手に持ち見比べていらした。
「どちらの手つきがいいかねえ、迷っているんだ」
「また私が姿勢をお取りしましょうか」
「じゃあ、少し頼めるかい」
「かしこまりました」
私は扇を手に立て膝をした。何度か旦那様の求められるままに手首や肩の向きを変え、かすかに首をかたむける。まなざしを横へ流す。そうしていくつかの姿勢を取ったあと、旦那様は筆を置かれた。
「ありがとう、もういいよ。……うん、うまく構図が固まりそうだ」
「それはようございました」
「やっぱり、きみが
「もったいないお言葉です」
私はつつましく目を伏せた。旦那様は笑って手をふる。
「いやあ、世辞とかではないよ。まあ付き合いが長くなってきたというのもあるだろうけど、阿吽で通じる相手というのは貴重だからね」
「そう思っていただけていたら光栄です」
「きみがもし辞めてしまったりしたら困るだろうなあ」
「あら、でも私がお婆さんになったらお役御免なのではございませんか?」
旦那様の女中としてお仕えする条件は、妙齢の女人であることだ。絵の
旦那様はそうした計画などご存知ないだろうが、私の軽口にはははと笑ってお答えになる。
「きみなら歳を重ねても
「あら、……」
私は思いがけないお言葉に声をつまらせた。大旦那様や奥様のおおらかなお顔が頭に浮かぶ。
もしかしたら、御二方は、私をお雇いになったそのときから、そこまで心を砕いてくださっていたのだろうか。だとしたら、私はほんとうの幸福者だ。
私は胸の奥から湧き上がるものを笑みに変え、旦那様に頭を下げた。
「ご厚情、痛み入ります。今後も誠心誠意お仕えしてまいります」
「相変わらず真面目だなあ」
旦那様がからからと笑い声を立てる。けれども、これは私の心から望むこと。
だから私は、これからもこの御家の女中として生きてゆく。
八坂木家の女中 うめ屋 @takeharu811
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