フローラルガーデンの妖精
大橋 知誉
フローラルガーデンの妖精
ケンイチは医学部を目指していた。
自分が医者になりたいのかはわからないが、父親が医者なので当然のように医学部を目指すことになっていた。
父親も母親も、ケンイチが医者になりたがっていると信じて疑わず、他の選択肢は概念にすらないような家庭で彼は育った。
だけれども、ケンイチはそれでいいのか、心の奥にわだかまりを抱えていた。
そんな彼のモヤモヤした気持ちを察したのか、ある日、学校の友人がケンイチを遊びに誘った。
「男の娘がいる喫茶店?」
「そうだよ、俺、ネットで見てさ、行ってみたいんだけど、一人で行く勇気なくてさ、なあ、ケンイチ、一緒に行ってみようぜ」
男の娘というのは、女の子のように見える男子のことを言う。
ケンイチもSNSで写真を見たことがあり、実は興味があった。
翌週の日曜日、ケンイチと友人は緊張した表情でコスプレ喫茶「フローラルガーデン」の席に座っていた。
接客をしてくれた店員さんは、この世の者とは思えないほどに美しい人だった。
妖精の衣装を身につけた長身のその人は、生身の人間とは思えない。まるで人形のような人だった。
名札を見ると「リラ」と書いてあった。
見た目は完全に女性だったが、声を聞くと男性と分かった。
ここには女性と男性の店員がいるそうだが、見た目では区別ができない。
ケンイチも友人もコスプレイヤーたちの美しさに圧倒されてほとんど彼らと話をすることはできなかった。
友人は男の娘を見ることができて満足したそうだったが、ケンイチは消化不良だった。
もっと彼らを知りたいと思った。
そうして度々ケンイチは一人で「フローラルガーデン」を訪れるようになり、少しずつ常連客へとなっていった。
それと比例して勉強に対する熱意は失われて成績は右肩下がりに落ちていった。
両親は不機嫌になりもっと勉強をがんばるようにガミガミ言ってきたが、彼が別のことに夢中になっているとはまるで気がついていないようだった。
毎週図書館に勉強しに行くという息子の見え透いた嘘を信じ、学力が落ちたのは努力が足りないからだと思っているようだった。
ケンイチは自分がやりたいことが何なのかわからなくなってしまった。
少なくとも医者ではない…それは確信に近かった。
ある日、学校に行く気がしなくなって公園のベンチでボーッとしていると、向こう側にも同じようにして座っている人がいた。
それはリラさんだった。
コスプレの衣装は着ておらず、普段の男性の姿になっていたけれど、ケンイチにはすぐにわかった。
話しかけていいものか迷っていると、向こうがケンイチに気がついて手を振ってくれた。
ケンイチは勇気を出してリラさんの元へと歩いて行き隣に座った。
「こんにちは、ケンイチ君。学生だよね? 学校は?」
「あ、サボりっす」
「そっか。そういう日もあるよね〜」
リラさんはそれ以上特に何も言わなかった。
「リラさんは? これから仕事ですか?」
「うん、そう。今、つかの間の休息時間。あ、僕のことはユウって呼んで、お店以外ではね」
そう言うとリラさん…ユウ君はウインクをして見せた。
それは恐ろしいほどに美しかった。
ケンイチはそんなユウ君の美しさはどこからくるのだろうと考えた。
こうして見ると、スタイルは抜群によいが、容姿はわりと普通なのである。
なのだけど、どうして、こんなに美しのか。
「あの、ユウ君。ユウ君はなぜコスプレを始めたんですか?」
ユウ君は「ん?」と言って少し微笑んだ。
もしかして聞いてほしくない事だったかな…とケンイチがあわてていると、ユウ君は話してくれた。
「子供のころね、僕、すっごい田舎に住んでたんだ。生花農家が多い地区でさ、ちょうどあれはライラックという花が見頃のころだった。僕は進路で悩んでいた。家業を継ぐのか、それとも、他にやることがあるんじゃないかって」
自分と同じだ…とケンイチは思った。
「お花屋さんも嫌いじゃないんだけどさ、なんか違うって思ったんだよね」
ケンイチはうんうんと頷いた。
「それで実家のライラック畑をあてもなく彷徨っていたらさ、見たんだよ…」
ユウ君の声が少し低くなったので、ケンイチはごくりと唾を飲み込んだ。
「お花畑の向こうにさ、この世の者とは思えないほど美しい人が立っていたんだ。田舎町にそんな人いるわけないじゃん。釘付けになっちゃったよね。でもその人は人間じゃないってすぐわかったんだ。だって、耳がこう長くてさ…」
「妖精…?」
「そう、ちょうど僕がお店で扮してるような感じ。で、その妖精が泣いてたんだ。わんわん、たぶん声をあげて。でも僕には彼女の声は聞こえなかった。僕は怖くなって逃げ出してしまった」
ケンイチがその場にいてもたぶん逃げるだろうな…と思った。
「そんで、家に帰ったらちょうど父さんがいたからさ、僕、家は継がないって勢いで言ったんだ。何でかわからないけど。そしたら…」
ここでユウ君は言葉を飲み込んで黙ってしまった。何だか怪訝な顔をしている。
ケンイチはどうしたらいいのかわからず、黙って次の言葉を待った。
しばらくして、ユウ君は再び話し始めた。
「そしたら…すごい怖いことがあって…でも何だったのか思い出せないんだ。気が付いたら僕は一人で電車に乗って東京に来ていた。しばらくお金もないから路上で寝泊まりしてて、そんで、フローラルガーデンの店長にスカウトされて働くようになったんだよ」
言い終わるとユウ君はにっこり微笑んだ。
なんだか壮絶な話を聞いてしまった。
ケンイチは何と言ったらいいのかわからずに黙っていた。
するとユウ君が代わりに言葉を繋いでくれた。
「もしかして、ケンイチ君も進路で悩んでいるのかな? そんな顔してるよ。自分が何になりたいのかわからない時はあせらなくていい。もしも進もうとしている道が違うんじゃないかって少しでも思ったら、立ち止まることも大切だよ」
そうってユウ君はウインクすると、そろそろ仕事だからといって行ってしまった。
ひとり公園に残されたケンイチは、そのまま家に戻った。
家に帰ると両親とも仕事に出ていて誰もいなかった。
ケンイチは母親のクロゼットを開けると、なるべくおばさんくさくない服を取り出して、着てみた。
母親の服はサイズが少し小さかったがギリギリ着れた。
白いブラウスに薄紫色のヒラヒラしたスカートだった。
それはコスプレイヤーとしてのリラさんが着ている衣装に少し似ていた。
続いてケンイチは母親の化粧道具を取り出し自分の部屋へと持って行くと、メイクをしてみた。
メイクなんて初めてだったが、SNSで見たりしていたので何となくわかった。
母親の化粧品はどれも地味な色だったが、胸の高まりが止まらなかった。
化粧を完成させて、全身を鏡に映してみると、そこには自分ではない自分が立っていた。
これ、かつらをかぶったら完璧に女の子に見えるんじゃ…? ケンイチは自分が可愛いのではないかと思ってドキドキした。
試しにスマホで自撮りをしてみると、思った以上に可愛く撮れた。加工しなくても結構イケるのでは…と思った。
それから勢いでSNSのアカウントを作成し、今撮った写真を公開した。
“男の娘です。初めてのメイクです”
すると、たちまち20件のイイねがついた。
気分が高揚した。こんな気持ちは初めてだった。
…自分がやりたかったことは、やっぱりこれだったのか。
ケンイチは確信したのだった。
それからというものの、ケンイチはコスプレの世界にのめり込んで行った。
ユウ君の勧めでフローラルガーデンのオーディションを受け、見事合格したケンイチはコスプレイヤーとしての仕事も手に入れた。
勉強にはまるで興味を失っていた。
成績はがた落ちで、補習に呼ばれてもサボりがちになった。
ケンイチはもう退学しようかと半ば心を決めていた。
彼の学校は進学校だった。それよりもメイクや衣装の専門学校に行きたいと彼は思い始めていた。
このことをいつ両親に打ち明けようかと悩んでいたある日。ケンイチは不思議なものを見た。
公園の花壇の向こうに、この世の者とは思えないほどに美しい人が立っていたのだ。
それは、人間ではなかった。ずっしりと胃に来るほどの美しさ。そして長い耳。
…妖精だ…。
ケンイチはすぐに確認した。
ユウ君に聞いていたとおりだった。
妖精は泣いていた。大声で泣いていそうなのに声は聞こえなかった。
ケンイチが固まってその光景を見ていると、妖精はふと姿を消してしまった。
妖精が消えると、ケンイチの緊張もほどけて、まるであれは夢だったのだろうか…と思えるくらいになった。
トボトボと家に帰ると、厳しい表情をした父親に話があると言われた。
ケンイチは思い当たる節がありすぎて、どの件についてだろう…とびくびくしながら父親の前に座った。
母親も不安そうな顔でキッチンからこちらを覗いていた。
父親は持っていたタブレット端末を操作すると、一枚の写真を開いてケンイチに見せた。
それは彼が最近アップしたコスプレ写真だった。
人気のキャラクターに扮したセクシーなショットだった。
「これは何だ?」
…見つかった。
そう思ったが、これは逆にチャンスだと思った。
自分の本当の思いを打ち明けるのは今しかない。
「僕だけど」
「それは解っている。これは何だと聞いているんだ」
「魔王復活伝のアイシャ…」
「そういうことを聞いているのではないっ!!」
父親は怒鳴ってテーブルを拳で叩いた。
ケンイチはビクッとなって下を向いた。
「最近たるんでいると思っていたが、こんなことをやっていたのか」
「…黙っててごめんなさい。でも僕は…」
「何を考えているんだ。こんなことでは医者にはなれないぞ、恥さらしが」
その言葉にカチンときてしまった。
「恥さらしって何だよ。こう見えて結構人気あるんだよ、僕」
父親の顔が真っ赤になった。怒りでこんなに赤くなる人をケンイチは初めて見た。
「ばかもん!! そういう問題ではない。お前は医者になるんだぞ、こんな下品な遊びをしている場合ではないっ」
「僕は医者にはならないよ!!」
ケンイチも負けじと声を荒げた。そもそも子供の意向を確認せずに勝手に医者になると決められていることに腹が立って来た。
これまでも、そこに一番腹がたっていたのだ。
「なんだと!? もう一度言ってみろっ」
「僕は医者にはならないって言ったんだ」
「じゃあ、何になるというのだ」
「コスプレイヤーだよ!!」
頬にバチンと強烈な痛みが走ってケンイチは後ろに吹っ飛んだ。
父親に殴られたのだ。
おろおろした母親が「あなたやめて…」と情けない声を出しながらキッチンから出てきた。
そんな母親を父親は押しのけた。
「お前は何だ、おかまなのか? 息子がホモだなんて知れたら世間に何と言えばいい?」
ケンイチは殴れらたことより、この父親の発言にショックを受けてしまった。
…今どき言う???
頭に血が上って冷静な判断はできそうもなかった。
ケンイチは飛び起きると、父親の胸倉をつかんで言った。
「父さん、二度とそんなふうな言い方しないで、差別発言だよ。無知丸出しだよ」
父親はケンイチの腕を振りほどくと、再び彼を突き飛ばした。
ケンイチはまた後ろに吹っ飛んだ。
「あなたやめて…」
母親がまた言っていたが本気で止める気はない様子だった。
「じゃあ、お前は何なんだ?」
「僕はコスプレイヤーだよ。女の子の恰好がしたいだけだよ」
ケンイチは起き上がりながら言った。
「やっぱりおかまじゃないか」
「だから、その言い方やめろ!!!」
気が遠くなるほどの怒りだった。自分の中にこれほどまでに熱いものが眠っているとは思ってもいなかった。
視界まで何だか赤く濁って、空気が熱せられているようだった。
いや…違う…実際に空気が赤く染まっている。
それは父親の体の周りからどす黒いオーラのようなものが立ち上って、周辺を赤く染めているのだった。
「お前は医者になるんだ…」
父親が呻きながら言った。それは人間の声には聞こえなかった。
血の底から湧き上がるような、地響きのような声だった。
さっきまでケンイチを支配していた怒りはなくなり、今度は父親を心配する番だった。
明らかに様子がおかしい。
母親を見ると、相変わらず「あなたやめて…」と言っているが目は虚ろだった。
ケンイチが一歩後ろに下がると、父親も一歩進んで来た。
これは逃げたら追って来るかもしれない。
捕まったら殺されるかも…。
蛇に睨まれたカエルのように、ケンイチは足がすくんで動けなくなってしまった。
そんなケンイチを見下ろしながら、父親はまるで野獣のような雄たけびを上げた。
そして、人間技とは思えない跳躍を見せて飛び上がると、ケンイチめがけて飛び掛かって来た。
ダメだ避けられない!!!
そう思った瞬間、目の前に立ちはだかる人がいた。
ユウ君だった。
「ケンイチ君、遅くなってごめん。ちょっと下がってて」
ユウ君は棒のようなもので飛び掛かって来た父親を押さえつけながら言った。
父親は口からどす黒い炎のようなものを吐き出しながらまた雄たけびをあげた。
それはもう人間の形相ではなかった。
ケンイチは必死で這いながら後ろに下がった。
「リラちゃん。こいつ何? 強いんだけど」
父親を押さえながらユウ君が言った。
「ワイバーンかな。龍の一種だよ」
女性の声がしたのでそちらを見ると、ソファーの背もたれの上に、いつのまにか美しい人が立っていた。
まるで重力を感じさせない立ち姿だった。
それはさきほど見た妖精だった。
「ワイバーン?! 何でそんな奴が?」
「わかんない。倒しちゃって」
「え~…」
ユウ君はこんな状況にしては呑気な声を出して棒を振り回すと、父親の胸に一突き強烈な攻撃を与えた。
父親はグフッと変な声を出して膝をついた。
「ユウ君、やめて! それ僕の父さんなんだ」
ケンイチは思わず叫んだ。恐ろしい姿になっても父親は父親なのだった。
「ケンイチ君、申し訳ないけど、これはもう君のお父さんじゃないよ。憎悪に喰われて魔人化してしまった」
何? 魔人化?
その言葉の意味を理解する間もなく、ユウ君は棒を再び父親に思い切り突きつけた。今度は首元に攻撃がヒットした。
すると、父親の首が吹っ飛んでキッチンの方へと飛んで行った。
首が切断されると、父親はもはや人間の姿ではなく、巨大な爬虫類の姿へと変わっていた。
ずどーんと大きな音がして、元父親だった大きな体が倒れた。
倒れると同時に、怪物の肉体は粉々に砕けて跡形もなく消えてしまった。
ケンイチはあまりのことに思考が停止し、口をあけたまま、その光景を見ていた。
自分が失禁していることには何となく気が付いていたがどうすることもできなかった。
「さて…」
ユウ君が振り向いてこちらを見た。
「ケンイチ君がショック状態になちゃったけど」
「これだけのことがあったんだもの、仕方ないよ。一旦記憶を消すわね」
妖精の女がふわりとケンイチの前に舞い降りて、顔を近づけてきた。
ふわりと花の香がした。
「あ、あんまり壊さないでよ、その子、僕のお気に入りだから」
ユウ君の言葉に妖精は「わかってるよ」と言いながら、さらに顔を近づけてきた。
「ケンイチ君、安心して、あなたは私たちが守ってあげる…」
妖精はケンイチの顔にふぅと優しく息を吹き替えた。
花の香が強くなり、ケンイチは意識を失った。
・・・・・
目を覚ますと、ケンイチは知らないベッドで目を覚ました。
身体を起こすと、ユウ君がいた。
「ここは?」
「僕の家だよ。今日から君は僕のルームメイトだよ」
「ルームメイト?」
「そう、いろいろあって大変だったね」
…いろいろ? 確かにいろいろあったような気がするけれど、全く思い出せなかった。
「大丈夫、僕が全部教えてあげるよ、何もかもね」
ユウ君はそういってにっこり微笑んだ。
ケンイチは、これでよかった…のかな…、と思った。
(おしまい)
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