18 迎え
明確に迎えの日時と場所を、いつどこでと決めてあったわけではない。ただ、何日くらいかかるかというおおよその日数をルシェから聞いていて、ハイマはそれに合わせてアグロス領の端っこをうろうろすればそのうちどこかで拾えるだろうと考えていた。つまり迎えの予定と言っても、
「よお、ルシェ」
「げ」
そんな風だったにもかかわらず、訪れた先で早々に彼女を捕らえられたのは
彼女はハイマを見るなりカエルが潰れたような声をあげ、ぎこちない仕草で視線を外す。
「おい、ルシェ?」
「あの……? ルシェ、とは?」
「気にしないでください、人違いですから」
「はあ?」
今のルシェは見慣れない少年の姿に変わっていて、言葉遣いも違っている。ただハイマには一度、こんな姿になっていると伝えられていたため、その姿がルシェだときちんと認識している。
男装姿は髪型や髪色が変わっているせいもあって妙に似合っていて、胸の奥の深い場所がざわめいた。男の姿をしているルシェを見ると、どうにも落ち着かない。
それは見慣れない姿だからとか、そういう理由だけではないような気がする。もっと深いところから、何かが警鐘を鳴らしている。そんな
(あいつ、誰だったかな。)
だというのに、ルシェはハイマの気など知らないという顔をしてそっぽを向き、隣にいる男と何か話をしている。ちらりちらりとこちらに視線をよこしてくる男の顔はフードに隠れてはっきりとは見えないが、布の隙間から垣間見えた目立つ
見覚えというよりは、聞き覚えがある。アグロス家の息子のどれかに、顔に大きな
そもそもアグロス家はゲオルゴスがかなり自分に権力と仕事を集中させていて、大勢いる子どもに権力を分散させたりはしていなかった。そのために子供たちが表に出てくることがほとんどなく、おかげでハイマは大勢の子供がいることは知っていても、彼らの名前と顔までは一致しない。
「ルシェー? せっかく迎えに来たんだぞ?」
「ひえっ」
ハイマに背中を向けているルシェに歩み寄り、がっしりと肩を掴む。上がった悲鳴はルシェではなく、目の前にいる男の方だ。
情けない声だと思ったところで、彼の名前を唐突に思い出した。ヒュステレオ・アグロス、ゲオルゴスの長男だ。まだ若いはずだが、
一歩、二歩と、彼はハイマから逃げるように後ずさった。ハイマは彼に対して何かをした覚えもなかったが、そもそも
そんなヒュステレオの行動を
「こら。せめて返事しろ」
「せっかく話を詰めていたというのに、貴殿は……」
はあとこれみよがしに大きく
戦場ではこれに殺気が籠っていたことと仮面があったためにそういうことを思う余裕はなかったのだが、不思議なものである。
「なんだ、それならそうと言えよ。無視するからだろ」
「う……それは、悪かった、が」
鴉などという
心のどこかに柔らかくてまろい部分が残っていて、普段は隠れているそれがふとした瞬間に顔を出す。それはハイマやリノケロスなどはとっくの昔に捨て去ってしまった部分で、だからハイマはルシェのそういう部分に余計に
「え、っと、イラ?」
「イラ?」
ヒュステレオが、恐る恐るルシェに声をかけている。
彼から見れば、突然現れたエクスロスの男に今まで話していた少年が絡まれている図、なのだろうか。かなりの不審者だと受け止められている気がした。
ハイマは仕方なくルシェを離しつつも、ヒュステレオの口から出てきた名前に首を傾げる。イラとは、どこかで聞いたような名前の一部である。その名前は背筋がぞわりと
ルシェを見ると頭が痛そうな顔をして、しばし何か考え込んでいた。そして、ややあってからハイマに向き直る。
「ちょっと待っててくれ。あとで話すから」
「わかった」
真っ直ぐに見つめてくる時のルシェには、嘘がない。時折嘘はないものの全てを口にしていないこともあるにはあるが、それは本人が不要と決めたことなので、ハイマはその選択に対して何も言わないことにしている。それがたとえ隠し事をしているのだとわかっていても、だ。
もちろん、全て終わった後にそれについて文句を言ったり叱ったりする日も来るのだろうが。
「申し訳ない。詳しい事情は説明できないのです。ですが、貴方を害するつもりはありません、信じてください」
「あ、ああ……」
ハイマを後回しにしたらしいルシェは、今度はヒュステレオに向き直った。
彼らがどのくらいの時間を過ごしたのかはハイマには分からないが、一目見ても警戒心が強そうな男を随分
普通、自分に対して偽名を使っていた相手の言うことなど信用できたものではない。
「先ほど話していた件は、万事任せてください。やりとりは手紙で。心配ありません、見つからない方法で送りますから」
「……わかった」
ヒュステレオの視線が、ルシェと、そしてその背後にいるハイマとを交互に行き来する。
ハイマが誰であるのか、ヒュステレオは正しく分かっているはずだ。ルシェのことまでは当然知るはずもないが、ハイマが親しくしているのだからエクスロス家の関係者であると思っているのだろう。つまり、自分に介入してエクスロス家がどう利益を得るのか、それを考えているのかもしれなかった。
疑い深いのは貴族には必要な性質の一つだろう。そういう意味では、ヒュステレオは当主としてやっていけるだけの素質はあるのかもしれない、などとハイマは彼について内心で評した。
ややあってから、彼は小さく頷いた。ルシェがほっとしたように胸を撫で下ろしている。別の場所に行くらしいヒュステレオは、そのままルシェから離れていった。
彼を見送って、ルシェはようやくハイマの元へ戻ってくる。その口は引き結ばれていて、明らかに不満げではある。その引き結ばれた
「あ!」
「おお。すごいな」
持っていたマントを頭から被せてその髪を隠してやり、連れていた馬の背中によいしょと掛け声をかけて乗せる。ルシェは終始機嫌が悪いことを伝えたいような顔をしていたが、ハイマは一向に気にならない。どの道馬を走らせれば、慣れていないルシェはぎゅっと背中にしがみついてくる。
「刺客に狙われているところに
「助けたのか」
「ああ」
馬が風を切る音に掻き消えそうな声を、ハイマはしっかりと拾った。
幸いにしてアグロス領の端でルシェと出会えたので、多少大きめの声で会話をしてもアグロス領の住民に聞こえることはない。そして、もうすぐそこが領地の境である。
「少し手を貸すことにした」
「甘いな。ほっときゃいいんだ」
鼻を鳴らせば、ルシェが黙り込んだ。自分でも余計なおせっかいをしたと思っているのかもしれない。
まだオルキデ籍であるルシェが他国の事情に介入するのは、事が露見した時のことを思うとよくないことだ。だがそれは、逆に言えば知られなければどうということもない。
「うまくやれよ」
「ああ。任せてくれ。そういうのは得意だ」
顔が見えなくともどこか胸を張っている姿が見える気がして、ハイマは笑い声を風に溶かした。
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