第4話

 土曜日。真信乃は駅で転生士・健太と待ち合わせていた。スーツ姿は少なく、オシャレをして友人達と行き交う人々が多かった。いつもの癖で怪しい人物がいないか真信乃が観察していると、見覚えのある見てくれの少年少女がこちらへやって来るのが見えた。


「マノセ君! お待たせしました!」

「おはようございます」


 健太と共に来たのは、ブラウンのジャンパースカートを身にまとう稀歩だった。真信乃はたしかに、健太にだけ待ち合わせの日時を教えたはずだった。何故彼女がいるんだと問い詰めると、健太はおそるおそる答えた。


「い、家の前で待ってて……」

「家の前?」

「そうですよ! お迎えにあがりました!」

「頼んでもないのに余計なことするな」

「でも、マノセ君と二人きりも緊張すると思いまして。なので、私が場を和ませてあげますよ!」

「いらないから」


 真信乃があからさまに「迷惑なんだが」という視線を向ける。しかし稀歩は気付いていないのか、あえてフリをしているのか、真信乃を無視して健太の腕を引く。


「さ! 行きましょう!」

「おい待て! ついてくるならオレの指示に従え!」

「えー? 指示って一体、何させる気ですかあー? もしかして……いやらしいことですか!? きゃー! 変態騎士団!」

「ふざけるな! 団長じゃあるまいし、そんなことするか!」

「あ、団長がそういうことしそうっていうのは団員公認なんですね」

「そりゃそうだろ。あんなチャラ男、見て見ぬふりする方が至難だ」

「しょっちゅうメディアに露出してますもんね。こんなんじゃ、露出度がどんどん増していきそうですね。色んな意味で」


 どんな意味だと、真信乃はあえて訊かなかった。その上、何となく想像できてしまった自分に幻滅した。変態の指揮する組織にいるせいか―――今度会ったら文句を言おうと、真信乃は頭の片隅にメモしておいた。


「そうだ、マノセ君。新幹線ですよね? 自由席ですか? 私切符買ってきます」

「え? 席はみんな自由だろうが」

「…………え?」


 稀歩だけでなく、健太までも真信乃を凝視する。なんだその目は、と睨み返すが、怯んだのは健太だけだった。


「マノセ君、新幹線乗ったことないんですか?」

「無いけど、関係あるか? 切符買えば乗れるのに」

「たしかにそうですけど、新幹線って在来線とは違うんですよ?」

「…………ざいらいせん?」


 未知の単語を復唱する真信乃に、稀歩は珍獣を見るような目を向けた。


「マノセ君……在来線知らないんですか?」

「なっ……やめろその目! そんな言葉、滅多に使われないだろ!」

「いえ、使われます。電車通勤通学でない方も知ってる常識的な言葉です」

「じょっ、常識……!?」

「逆に訊きますが、何故知らないんですか? 健太さんですら知ってるのに」

「ま、まあ俺は卓を通して知っただけで……」


 真信乃がぎろりと睨むと、健太は肩を跳ね上げて稀歩の後ろに隠れた。


「こら、マノセ君! そうやっていちいち威嚇しない!」

「オレは不要な言葉なんて憶えないんだよ!」

「不要? マノセ君、団員としてはすごいですが、所詮はただの中学生ですねえ〜」

「なんだと!?」


 嘲笑混じりの声に、真信乃の怒りが一気に増幅する。


「知らなくても問題はない!」

「まあ百歩譲って在来線を知らなくても良いですけど、切符の買い方は知ってないとダメですよ」

「な、何か違うのか?」

「違いますよ。違いすぎますよ。とりあえず買いますか。マノセ君、お金ありますか?」

「馬鹿にすんな。オレは騎士団員として働いてるんだぞ」

「そうでした。では、交通費は働いている真信乃先輩持ちで!」

「そうやってまた……!」


 真信乃が怒る前に、稀歩は窓口へ行ってしまった。少しして戻ってくると、三人分の新幹線切符を手に持っていた。


「はい、これが新幹線に乗るための切符です」


 稀歩は、乗車券と特急券を一枚ずつ真信乃に手渡した。そのサイズも枚数も予想外だったが、真信乃は記載された料金に驚愕した。


「たっか!」

「当たり前ですよ。新幹線ですから。でも、自由席ですからまだ安い方ですよ」

「これで!?」

「たかだか数百円で百キロ超過も乗せてくれるわけないじゃないですか」


 さも当然のように言い、健太をつれて改札へ向かう稀歩。真信乃もしぶしぶついていくが、予想と現実のギャップに頭が混乱していた。


「切符は一枚で、小さいやつ。運賃だって二百円とか、そのくらい……」

「だから、それは在来線の話です。新幹線は長距離移動するんですから、それなりの運賃になります。二枚あるのは特別料金がかかるからです」

「特別?」

「速さとサービス料金です。まあ、乗れば分かりますよ。ね、健太さん?」

「あ、実は俺も初めてで……」

「そうなんですか!」


 改札を通りながら談笑する稀歩と健太。その後ろで、真信乃は不満そうに足を進めていた―――別に、新幹線なんて滅多に乗らないし。知らなくったって関係ないだろ。

 休日とは言っても、長期休暇など挟まない普通の日。それでも新幹線ホームにはまばらに人がいた。タイミング良く列車が到着し、三人は乗り込む。適度な乗客数の号車で座席を回転させ、稀歩と健太が隣り合わせに、その向かいに真信乃が座った。


「さて、目的地まで四時間くらいですかね。それまで何しましょうか?」

「四時間!?」


 真信乃の驚きが車内に響く。稀歩が静かにするよう咎めると、不服そうな表情をしつつも声を落とした。


「新幹線は速いんじゃないのか!?」

「速いですよ。だから四時間で着くんじゃないんですか」

「それは速いと言わない!」

「マノセ君、科学はまだまだ発展途上なんですよ? そんな一瞬で長距離移動できるわけないじゃないですか。魔法だって、そこまで便利でもないのに」

「うぐ……」


 ぐうの音は出たが、真っ当な正論に真信乃は黙るしかなかった。何もかもが思っていたことと違う。それを知らなかったことも、稀歩に教わったことも気に食わず、真信乃は顔をしかめて車窓を眺めた。列車は予定通り発車し、景色が流れていく。


「そうだ、マノセ君。時間もたっぷりあることですし、訊いてもいいですか?」

「なんだよ」

「マノセ君はどうして騎士団に入ったんですか?」


 真信乃は稀歩を横目で見た。興味津々な視線を向け、いかにも「それっぽい理由」を期待しているようだった。

 たしかに、騎士団に入団する者の大半は「そういう動機」だろう―――それ故、真信乃はこの手の質問をされるのが嫌いだった。


「知りたいのか?」

「知りたいです! 天才児・神崎真信乃がいかにして騎士団に入団したのか!」

「お、俺も知りたいです!」


 健太も揃って目を輝かせている。真信乃はその視線から顔をそむけ、頬杖をついて再度景色を眺めた。


「家出したから」


 静かな車内、真信乃の答えはたしかに稀歩と健太の耳に届いた。しかし二人は、それをインプットすることができなかった。


「……………………え?」


 その結果、当然口から出たのは疑問符だった。


「イエデって言いました?」

「言った」

「イエデ………って、あの家出ですよね? 家を出ると書いて、家出」

「そうだけど」

「……………んん? 家出したから入団? どういう理論ですか? 健太さん、分かります?」

「いや、分からないです……」


 そりゃそうだろうなと真信乃は一人で思う。騎士団に入団する代表的な動機は、「平和を守りたいから、騎士団に憧れたから」である。それ以外の理由など予想されておらず、二人が首を傾げるのも当然の反応だった。


「えっと、マノセ君? もう少し分かりやすくお願いします」

「家出したから行くとこなくて入団した」

「???」


 即答するが、二人の疑問は晴れなかった。


「あの、もう少し分かりやすく」

「騎士団に寮があるだろ? だから」


 しばらく沈黙が流れ、ようやく稀歩が口を開く。


「えっと………つまり、家出して行くところがなく、衣食住を確保するために騎士団の寮を狙って入団した………ということですか?」

「そういうこと」


 まさかの回答に、稀歩と健太は目を丸くした。


「な、なんですか? そのヘンテコな理由は……」

「ヘンテコ? 衣食住と仕事を同時に確保できる最善の選択だろうが」

「たしかにそうですけど……いえ、そもそもどうして家出なんかしたんですか? まずその状況に疑問なんですが……」


 自然な質問の流れに、真信乃の気分は更に落ち込んだ。それを回避するなら適当にはぐらかせば良いものの、どうしても彼は嘘を吐けなかった。嘘が嫌いな性格が裏目に出た結果である。


「……………親と喧嘩して」

「えっ………それだけで?」


 それだけと言い切れるほどでもなかったが、それ以上の詮索は避けたかったため、真信乃は無言で頷いた。


「ええー! マノセ君、それ本当なんですか!? つまり、もう何年も実家に帰ってないってことですよね!?」

「そうだけど、それが何?」

「ダメですよ! 一度帰って、ちゃんと仲直りしないと! ね、健太さん!」

「そうですよ! 俺みたいになっちゃったらどうするんですか! 後悔しても遅いんですよ!」


 不慮の事故に遭い、家族が心配で転生士になる―――真信乃は自身と両親を当てはめ、想像した。


「―――ありえないな」

「……ありえない?」


 嘲笑混じりに吐き捨てた真信乃に、稀歩は耳と目を疑った。


「ああ、ありえない。不本意に死ぬことは嫌だけど、今のまま親と死別しても後悔なんてするわけない」

「そんなことないですよ! 絶対後悔します! 遠くに住んでいるのと二度と会えないのはまるで違いますよ!」

「分かってるよ。理解した上で言ってる」

「分かってません! マノセ君、冷静に考えてください! というか、何にしても仲直りして損はないでしょう!」

「そこまでする理由がない」

「なんでですか!」


 やっぱりこいつは普通のやつらとは違うと、真信乃は再認識した。騎士団員に対して、規制線の外から眺めるだけではなく、躊躇なく入り込んでくる。

 しかし、話題が悪かった―――真信乃は、青年のような低い声で答えた。


「親にとって、兄を殺したのはオレだからだ」


 車窓は、トンネルの闇で塗り潰された。揺れと走行音が増し、彼らの沈黙を破る。真信乃は窓に映る稀歩を確認した。言葉を探しているのか、何か言おうとしたが口を閉じ、また開きを繰り返している。そうしてやっと出てきた言葉は、真信乃には少し意外なものだった。


「………マノセ君は、自分に価値が無いと思っているんですか?」


 ここまで話したのは、団長と仲斗だけだった。訊いてきたくせに、どちらも最後には興味を無くし、特にコメントも無く終わっていた。真信乃も何かを求めていたわけではなかったため、それ以来その話をすることもなかった。

 稀歩はおそらく食いつくだろうとは覚悟していたが、まさかそんなことを訊かれるとは思っておらず、逆に疑問が芽生えた。


「そんなこと、思ったことないが?」

「えっ? そ、そうなんですか?」

「当たり前だ。オレは何も悪いことしてない。オレの行動が結果的に兄の死に繋がっただけだ」

「…………それって、マノセ君のせい……ではないんですか?」


 はあ、とため息を吐き、真信乃は稀歩を睨む。


「オレは、自分が魔導士であると自慢した。それを盗み聞きしていた男がその魔力を欲し、オレと勘違いして兄を攫った。しかし、人違いと分かると兄を殺した。これのどこが、オレのせいだって?」


 淡々と、悲しむ様子もなく説明する真信乃に、健太は疑念の眼差しを向ける。


「あなたが自慢なんてしなければ、お兄さんは死ななかったのでは?」

「親もそう言った。『お前があんなことしなければ死ななかったんだ』って。だから家出した」

「逆ギレ……したってことですか?」

「―――ほんっと、何にも分かってないやつばっかだな」


 少年が発したのは、怒りよりも呆れの多い声色だった。


「実際に兄を殺したのは犯人だ。真に悪いやつはそいつだ。そいつが行動を起こさなければ起きなかった、ただそれだけの話だろ」

「それはそうですけど……」

「悪意のあるやつに悪意を持って情報を流したのなら、責められて然るべきだと思う。だが、オレは自慢したかったからしただけだ。友達に、自分の魔力を知ってもらいたくてしただけだ。それを勝手に盗み聞きして、間違えて兄を攫って殺したのはあの男だ。それなのに、なんでオレが悪にされなきゃいけない?」


 その言葉に、一切の迷いはなかった。強い意志を持って発する言葉に、健太はそれ以上言い返すことができなかった。その代わりか、稀歩が問いかける。


「……マノセ君は、少しの後ろめたさもないんですか?」

「無いな」

「後悔も?」

「無い」

「自分がいなければ……と思ったことも?」


 トンネルから抜け、眩しい日差しが真信乃の背後から差す。


「当たり前だ。悪事に巻き込まれただけなのに、どうしてオレが割を食わなきゃならない?」


 少年には、真っ直ぐ一本の芯が通っている。「悪いことをしたやつが悪い」と、自分に一切の非がないと本気で信じている。それが良いのか悪いのか、稀歩には分からない。だが、彼女は純粋に思った。皮肉でも何でもなく、ただ、率直に。

 ――――――羨ましい、と。



 新幹線で約四時間、そこからバスで三十分かけてようやくたどり着いたのは、何の変哲もない住宅街だった。駅前はかなり栄えた地方都市、しかしオフィスビルなどはほとんどなく、車社会を後押しするように車道は広かった。その車線の多さに真信乃達は驚いていたが、ありがちな住宅街の風景に少し安堵した。


「この辺はどこも変わらないんだな。道路も広くないし」

「どこもかしこも広かったら不便でしょうがないですよ」

「でも、人口が少なかったらそうなるんじゃないのか? そんなに家も必要無いだろうし」

「どうですかねえ」


 バス停から歩くことおよそ十分。健太に連れられてやって来たのは、瓦屋根の一軒家だった。二階のベランダには洗濯物が干してあり、脇の駐車場には車も停まっている、ごく普通の家だった。


「場所は合ってる……」


 健太はまじまじとその家を眺め、手元のメモを読み返す。


「けど、俺の家じゃないです」

「百年近く経ってるなら取り壊されててもおかしくないし、現存しててもリフォームか何かされてるだろ。ど田舎ってわけでもないし、そっくりそのままなんて難しいよ」

「やっぱりそうですよね……」


 がっくりと肩を落とす健太。その横を稀歩が通り過ぎ、二つ掛かった表札を確認した。


「佐々木と和田……どちらか、健太さんの名字ですか?」

「いえ、俺は日比野です。妻の旧姓も違いますし……」

「じゃあ他人が住んでるんだな」


 どんまい、と真信乃が健太の背中を叩く。今にも泣き出しそうな健太だったが、稀歩は僅かな希望を見逃さなかった。


「まだ可能性はありますよ。健太さん、お子さんのお名前は?」

「え……? 日比野寛太……ですけど……」

「了解です」


 稀歩は表札横のインターホンを押した。少しして現れたのは白髪の高齢女性だった。


「どちら様?」

「突然申し訳ありません。日比野寛太さんという方をご存知ですか?」

「はあ……知ってるけど」

「えっ!?」


 まさかの返答に、健太は老婆に駆け寄った。


「知ってるんですか!?」

「だから何だっていうんだい?」

「どっ、どういう関係ですか!?」

「健太さん、落ち着いてください」

「ん……? あんた……」


 老婆が健太の顔をじっと見つめる。稀歩が引き剥がすと、今度は全身を眺めた。


「どうしました?」

「いや………何となく見覚えがあるなと思ってね」

「見覚え?」

「それより! 寛太とどういう関係なんですか!?」

「健太さん! 少し落ち着いてください!」

「日比野寛太は、私の父だけど?」


 その場に沈黙が流れた。健太の息子・寛太がこの老婆の父―――ということは、この老婆は健太にとって―――。


「…………俺の、孫?」


 訝しげに来訪者を眺める老婆。そのうち一人、健太の眼から涙が溢れ、彼女はぎょっとした。


「な、なんだい。急に泣き出して」

「おっ……俺のっ………孫っ……! 寛太あ……ちゃんと結婚したんだな……!」

「おめでとうございます! 健太さん!」

「お前たち、何者なんだい! さっきからわけが分からないよ!」

「ああ……すみません。それはオレが」


 号泣する健太を押しのけ、真信乃が団員カードを見せながら説明した。


「遺した家族が心配で彼は転生してしまいまして。その家族が住んでいた場所がここなんです」

「転生士………ほう、なるほどね」


 真信乃の予想に反して、老婆の理解は早かった。顎に手を当て、健太を観察する。


「だからあんたに見覚えがあったんだ」

「彼のこと、写真か何かで見たことが?」

「ああ。祖母が昔、祖父の写真を見せてくれたことがあってね」

「なるほど。ほら、お孫さんが健太さんのこと見たことあるって!」

「私が孫か! 久しぶりに言われたよ」


 ケラケラと笑った老婆は、真信乃達を家の中へ通した。廊下を抜けてリビングに通され、彼らはソファーに座る。それぞれにお茶を出し、老婆も一人用のソファーに腰掛けた。


「祖母はもちろん、両親も既に他界している。私の夫もね。今は娘家族と暮らしてるんだ」

「この家は建て替えなどを?」

「二十年ほど前にね。かなり大掛かりにやったから、前の家だと分からなくても無理ないよ」


 そうだ、と老婆が立ち、棚の中から写真を持って戻った。


「これ、私の七五三の写真だよ。私と両親、それから父の母……あなたにとっては妻になる方が写ってる」


 着物姿の若い男女の前で、可愛らしく着飾った少女と椅子に腰掛けて笑う高齢女性が写っている。老婆と男は、僅かに垂れ気味の目元が似ていた。健太は写真をじっと見つめ、次第に涙が溢れ出した。


「寛太………こんなに立派に育って……綺麗なお嫁さんまでもらって……」


 ぽたぽたと、古びた写真に涙が落ちる。


「恵子も………幸せそうに笑ってるな……」

「ばあばの料理、美味しかったよ。母も、それから私も、ばあばから料理を習ったんだ」

「そっか………恵子、俺のために一生懸命料理の勉強してくれたもんなあ……」


 人目もはばからず涙を流す姿に、稀歩も目が潤んでいた。真信乃は特に表情を変えたりしないが、ぼんやりと思っていた。

 一体、彼は何を思っているだろう。この写真の中にいられなかった後悔か―――否、大好きな家族との日々で得た喜びだろう。記憶の中に必ず存在する思い、彼にとってそれは幸せでいっぱいなのだろう。


「ほらこれ。昔のアルバムだよ。ばあばは少ししか写ってないけど」


 老婆が奥の部屋からアルバムを持ってきた。老婆の成長記録をメインに、何枚かの写真に恵子が写っている。どれも笑顔で、幸せそうに家族を見守っていた。それを眺める健太も、安心したように微笑を浮かべている。


「素敵なアルバムですね。皆さん笑顔で楽しそうです」

「いつもばあばが言ってたよ。家族がいてくれるから寂しくないけど、夫は一人で待ってるから早く迎えに行かないとって。その度に冗談言うなって父に怒られてたけどね」

「そっか……」


 幸せな家庭だったのだろう。子供や孫に囲まれて、それでも先立った夫を想い続けていた。それを、生前の健太が知る由はなかった。こうして転生し、老婆の元へ送り届けたことで、初めて彼は妻の〝思い〟を知ることができたのだ。

 転生士は迷惑な存在だけど、今回ばかりは、稀歩の言うことを聞いておいて良かったな。いつものように処置していたら、こんな〝思い〟だったと、知らずにいたままだっただろう―――真信乃の〝思い〟は、僅かに変化を始めていた。

 そうだな。もし今後も、こういった転生士が現れたら―――。


「………ありがとう」


 健太は写真を孫に返した。


「もう良いのかい?」

「ああ。恵子と寛太が幸せな人生を送れたって分かれば充分だ。それに………恵子を迎えに行かないとね」


 その瞬間、全員の視線が健太に奪われた。彼の身体は僅かに光り始めている。それは、転生士が発生するときのものとは違い、淡く優しいものだった。


「俺の未練に付き合ってくれてありがとう。申し訳ないけど、卓の両親に謝っておいてほしい」

「ああ、分かった」

「ありがとう………本当に、ありがとう」


 流れる涙は光に溶ける。健太は孫の手を取って優しく包んだ。


「最期に、君に会えて良かった」

「孫なのに、こんな老婆ですまないね」

「いいや―――やっぱり、孫は可愛いよ。どんな姿でもね」

「ふふっ……ありがとう、おじいちゃん」


 健太は笑った。次の瞬間、まばゆい光に包まれ、健太は跡形もなく消え去った。成仏したのだろう―――真信乃は初めて目撃したが、あの満ち足りた表情を見て確信した。


「良かったです。未練が晴れて」


 涙を拭い、稀歩は安堵する。真信乃もそれに同意すると、老婆に軽く頭を下げた。


「突然押しかけてすみませんでした。あなたのおかげで、彼は無事成仏することができました」

「いいんだよ。私も会えるはずのない祖父に会えて、なかなか良い冥土の土産話になりそうだ」


 真信乃は、返答に困って苦笑しただけで終わった。目的を果たした真信乃と稀歩は、老婆の家を後にする。もうすぐ十五時半になる頃、バス停に向かいながら真信乃はぼそりと呟いた。


「思ったよりも早く終わったな。これなら今日中に帰れるか」

「……マノセ君」


 隣を歩く稀歩が突然立ち止まり、真信乃も足を止めた。振り返ると、彼女の真っ直ぐな瞳と目が合った。


「ありがとうございます」

「何が?」

「マノセ君が協力してくれたおかげで、健太さんは成仏できました」


 深々と下がる頭。その行動に、真信乃は首を傾げる。


「なんで稀歩がそこまで感謝する?」

「マノセ君は最初、健太さんを殺そうとしていました。ですが、騎士団でも何でもない私の提案で、手間のかかる成仏を選択してくれました。時間もお金もかかるのに協力してくれました。だから、私がここまで感謝するんです」


 たしかに今回の行動起因は稀歩―――しかし真信乃は、感謝されるだけではないと思っていた。


「オレも、稀歩に感謝するよ」

「………え?」


 顔を上げた稀歩の視界に真信乃の笑みが映った。


「少しだけ、転生士の見方が変わった。暴れるやつはもちろん許せないけど、ああいう綺麗な〝思い〟もあるんだって、そういう綺麗な転生士もいるんだって気付いた」

「マノセ君……!」

「真偽を確かめるのは大変だろうけど……でも」


 とん、と胸を叩き、黄色い瞳は力強い光を放った。


「悪意のない転生士は、なるべく助けようと思う」



 ――――――それはまるで、本物の騎士のようで。小さな身体に、たくましさを感じて。

 ――――――――――――■■てほしいと、思った。



「っ!」


 突如、真信乃がインカムに手を当てる。耳に鳴り響いたのは緊急警報だった。


「周囲の団員に告ぐ。凶暴性のある魔導士が逃亡中。特徴は、茶短髪に黒縁眼鏡、茶色いチェックのシャツに白インナー、紺のジーンズに白のシューズを履いている。なお、標的は洗脳されている模様。繰り返す……」


 真信乃は即座にイメージをインプットし、周囲を見回した。のどかな住宅街、騒ぎが起きた様子はない。

 騎士団の緊急警報は、半径三キロ以内の団員に応援要請をするものだ。標的がすぐ近くにはいなくとも、こちらへ逃げてくる可能性も十分ある。真信乃は最大の警戒を持って歩き始めた。


「マノセ君? どうしたんですか?」

「魔導士が逃亡中だ。しかも洗脳されてる。稀歩、気を付けろ。洗脳されてるってことは、ターゲットは『魔法の使えない一般人』だからな」


 息を呑み、緊張した面持ちで稀歩は後をついていく。真信乃は頭の僅かな隙間で、ある疑問を考えていた。

 ―――本部のある街以外で被洗脳者が発見されたのは、これが初めてだ。幸か不幸か、自分がここにいるときに、偶然ここにも被洗脳者が現れた。

 どうして突然? それとも、他の街にも出現していたけど、被洗脳者だと気付かなかっただけ?

 ―――それはありえない。被洗脳者は異常なまでに、「魔導士が支配する世界」を叫んでいる。それを聞いて正常だと思う者は、同じように洗脳された者だけだ。

 何か理由があるはずだ。今日このとき、この街この場に現れた理由が。


「この辺りで逃げてるんですよね。警報は出されないんですか?」

「警報を出したところですぐ逃げられる。パニックになった住民に別の騒ぎを起こされても困る。以上の理由で、逃走中の事件については水面下で対処されるんだ」

「なるほど。一般人と違って、逃げ回れる範囲は広いですもんね」

「そういうこと」


 しばらく街をパトロールしていたが、日の暮れた頃になっても逃走者と鉢合わせることはなかった。駅まで戻り、稀歩はベンチに座る。疲弊した足をさすりながら、険しい顔で人々を観察する真信乃に声をかけた。


「マノセ君、疲れてないんですか?」

「こんなんで疲れてたら、騎士団員は務まらないからな」

「すごいです〜……ああ、お腹空いたなあ……」


 稀歩の呟きに、真信乃も空腹を感じ始めた。時刻はもうすぐ十九時になる。今日中に帰宅するのは不可能になったため、二人はホテルに泊まることにしていた。


「どこかで食べて、ホテルを探すか」

「はい。もうくたくたですし、今夜は早く眠れそうです」

「いつもは遅いのか?」

「え? あ……ええと、ま、まあ。ええ。つい携帯見ちゃって……」


 ばつが悪そうに口ごもる稀歩。何となく気になったが、追及することはなかった。二人は適当な店に入り、雑談も交えて食事を楽しんだ。



 食事を終えた二人は、今夜泊まるホテルを探すために店を出た。


「マノセ君のおごりですし、ちょっと良いところにしません?」

「人の金だからこそ遠慮しろよ」

「そんなこと言って、結構稼いでるんでしょう?」

「そんなわけないだろ。裕福だったら寮なんてとっくに出てる」


 二人は適当なビジネスホテルに入った。フロントで空き部屋を確認するが、そこで予想外の返答を告げられた。


「申し訳ありません。本日は満室です」

「―――え?」


 なんてことない、ただの土曜日。老舗旅館や高級ホテルならまだしも、ただのビジネスホテルが満室だとは思っておらず、真信乃も稀歩も顔を見合わせた。


「満室……? マノセ君、何か心当たりありますか?」

「いや……騎士団関連のものは何もない」

「私も特に思い当たりませんね……」

「あの……」


 ホテルマンがタブレット端末の画面を二人に見せた。そこに映っていたのは、超人気男性アイドルグループ・ハナビのネット記事だった。


「今日明日、ハナビのコンサートがあるんですよ。会場はこの近くで」

「花火……? そういえばそんな時期か」

「えっ!? あのハナビのですか!?」


 首を傾げる真信乃とは対照的に、稀歩はタブレット画面に食いついた。


「本当だ……! 今日と明日! うわあ、すごいです!」

「何がすごいんだ? 花火なんて毎年どこでもやってるだろ」

「違います! そのハナビじゃないです! 国民なら誰もが知っているアイドルグループです! そのコンサートがやってるみたいなんですよ!」

「オレ、知らないけど」

「ええっ!? マノセ君、それはまずいですよ! テレビ観てないとかそういう次元じゃないです! 世間知らず!」

「ただのアイドルグループを知らないからって世間知らずなわけないだろ!」

「いいえ! そう言われてしまうほどハナビは超超超有名なんですよ! ねっ?」


 稀歩に突然振られたが、ホテルマンは焦ることなく同意した。それどころか、ハナビについて稀歩と盛り上がり、フロントが賑やかになる。


「世阿瀬くんが出てる『恋ゲキ』、先週は遊園地デートの話だったじゃないですか。あれ、ほとんどアドリブらしいですよ!」

「そうなんですか! 台本無しであんな自然な演技ができるなんてすごいですね」

「ですよね! でも実は台本があったそうなんですけど、あまりに演技が下手で、監督から『好きにやってみろ』ってダメ元で言われたらしいんですよ!」

「アドリブに強い人なんですね。素晴らしい」

「ですよね〜!」


 楽しそうに喋る稀歩を、真信乃はむっとして眺めていたが、唐突に踵を返して外へ出ていった。慌てて彼女は追いかける。


「マノセ君! どこ行くんですか?」

「ホテルを探すんだよ」

「たぶんどこも空いてないですよ。ハナビの人気は本当にすごいんですから」

「じゃあ野宿するつもりか?」

「最悪、それも考えないとですよね」

「……本気で言ってるのか?」

「都心ほどホテルの数も多くないですし、可能性はありますよ」


 冗談でもなく真剣に言う稀歩に、真信乃はようやく危機感を抱き始めた。たかだかアイドルグループのコンサートでホテルが埋まるなど、想像できない。しかし、現にこのホテルは満室だった。

 いや、そんなことはない。どこか一室くらい空いているはずだ。いくら有名だからって、客室数を埋め尽くすほどのファンが集まるわけがない―――そう信じたかった真信乃を、現実はあざ笑った。


「申し訳ありません。今夜は満室です」


 これが最後の希望だった。他のホテルは全滅、それはただの偶然だと思い込ませ挑んだ最終試合……真信乃はその場に崩れ落ちた。


「まさか本当に………」

「だから言ったじゃないですか。ものを広く知っていたら、避けられたかもしれませんよ」

「うぐ……」


 どストレートに、ど正論を叩きつけられた。業務以外のことなど必要無いと思い込んでいた真信乃だが、このときばかりはそんな過去の自分を恨んだ。癪だが、上司や団長の言うことを素直に聞いて世間に目を向けていれば……後悔に苛まれる真信乃の頭上で、フロントの電話が鳴った。ホテルウーマンが対応したが、その応答を聞いた稀歩が、目を輝かせて真信乃を見下ろした。


「マノセ君! 奇跡が起きたかもしれませんよ!」

「奇跡ならもう既に起こったろ。ここらのホテルが全て満室。こんなこと、滅多に起こらない」

「違いますよ! これは奇跡ではなく必然です! そうじゃなくて! ほら立ってください!」


 稀歩に腕を掴まれそうになったのを避け、真信乃はしぶしぶ立ち上がった。ホテルウーマンは受話器を置くと、希望と絶望の瞳を向ける二人に拍手を送った。


「お客様、おめでとうございます。ただ今予約キャンセルの連絡があり、一室だけ空きとなりました」

「本当ですか!? やったー!」


 諸手を挙げて喜ぶ稀歩の隣で、真信乃は訝しげにホテルウーマンを睨んだ。


「こんなタイミング良く? 本当は最初から一室空いていたんじゃないのか?」

「いいえ。これはお客様の運が大変良いために起きた奇跡でございます」

「本当に……?」

「はい」


 笑顔で受け答えるホテルウーマンに、真信乃は仕方なしに信じるしかなかった。それに、ここを逃したら今晩は野宿が決定してしまう。拒否する選択肢はなかった。


「分かった。じゃあその部屋に一泊、二人で」

「はい。それでは、ダブルルームでお二人のご宿泊ですね」

「えっ!? ちょっ、ちょっと待ってください!」


 やっと休めるのかと安堵していた矢先、今度は稀歩が慌てて待ったをかけた。


「ダブルなんですか!?」

「はい。左様でございます」

「えっ……あの、他に部屋は……」

「稀歩、お前アホなのか? たった今空いた末の宿泊だぞ。他に空き部屋があるわけないだろ」

「だっ、だって……ま、マノセ君はいいんですか?」

「何が? 泊まれるなら何でもいいだろ」

「ダブルルームってことは、ベッドが一つってことですよ!」

「は?」


 真信乃がぎろりとホテルウーマンを睨む。


「なんでダブルルームなのにベッドが一つなんだ?」

「あ、マノセ君……やっぱり知らなかったんですね……」

「は?」

「ダブルルームはお二人で一つのベッドをご利用していただくため、ベッドはシングルよりも大きいものとなっております」


 それを聞いて、真信乃は顎に手を当てた。


「二人で一つの……? それってかなり大きいってことだよな?」

「ダブルベッドはシングルベッドの幅約一.五倍となっております」

「二人で寝るのに? 二倍じゃないのか?」

「申し訳ありません」

「まあ仕方ないか……」

「えっ、マノセ君! まさか泊まる気ですか!?」


 そうだけど、と真顔で答える真信乃に、稀歩はさらに慌て出した。


「正気ですか!? ダブルベッドですよ!」

「だから何」

「ダブルってことは…………わ、私と寝るってことですよ!?」

「寝相悪いのか?」

「そうじゃないです! 同じベッドにお、女の子と寝るって……ど、どういうことか分かってますか!?」


 真信乃はため息を吐いた。十四歳とはいえ、そういった知識が無いわけではない。どうして彼女が焦っているのかも、想像はできる。

分かっているからこそ、何の問題もないと彼は思っていた。


「分かってるよ。オレが男だから、稀歩は不安なんだろ。襲われるかもって」

「そっ……………そうですよ。私だって、まがりなりにも、お、女ですから」

「でも安心しろ。オレはそんなことしないから」

「それは分かってますよ。マノセ君がそんな人ではないってこと…………分かってますけども」

「それじゃ何が不満なんだ?」


 本気で首を傾げる真信乃を、稀歩は信じられないといった表情で見返す。


「マノセ君がそんなつもりはないと思っていても………き、緊張しますよ。ツインベッドならまだしも、お、同じベッドなんですから……」

「そんなに? シングルサイズで寝ろってわけじゃないんだから、ピッタリくっつくわけじゃないし。そんなに緊張することあるか?」

「そうじゃないですよ! どんなサイズでも、同じベッドの上っていうのが嫌なんです!」

「じゃあどうするんだよ。他に泊まるところは無いのに。野宿するつもりか?」

「分かってますよ! ここしかないから、嫌でも泊まるしかない。分かってますけど……!」

「っ………あーもう……いい加減にしろよ」


 真信乃はうんざりして吐き捨てる。


「嫌なら稀歩だけ野宿すれば? オレはここに泊まるから」


 冷たい少年の言葉は、静かなフロントに響いた。当の本人は、「準備お願いします」とホテルウーマンを促す。彼女は戸惑いながらも、宿泊の手続きを始めた。カタカタと、キーボードの叩く音だけが鳴る。

 真信乃は稀歩を見なかった。子供のようにわがままを言う彼女にいらついていた。そんなに嫌なら出て行けばいい。オレは気にしないし、襲ったりなんかしない。それが信じられないなら、そっちがどこかへ行け―――心中で文句を吐き続ける真信乃。

 それに意識を取られていたせいか。

 ―――肩を乱暴に押されたことに反応できなかった。


「っ―――!?」


 次の瞬間、頬をひっぱたかれた。


「なっ……!?」


 まさに、鳩が豆鉄砲を食ったように―――真信乃は稀歩を見上げた。自分を叩いたのは彼女だ。怒りで呼吸が荒くなり、緑色の瞳からは涙がじわじわと滲み出ていた。


「マノセ君の馬鹿ッ!」


 稀歩はホテルを飛び出していった。突然の暴力と罵声に真信乃は呆気に取られていたが、すぐに状況を理解し、彼にも沸々と怒りが沸き上がった。


「なっ……オレが馬鹿!? ふざけんな!」


 いや、そこに怒るのかよ―――ホテルウーマンは無言のツッコみを入れた。


「何なんだまったく! わがままばっかり! あいつ本当に年上か!?」

「……………」

「嫌なら勝手に出ていけ! 野宿でもしてろ! オレ一人で広々ベッドを使ってやるからな!」

「……………お客様」

「なんだ?」

「お客様方は、お付き合いをされていないのですか?」

「当たり前だ。最近知り合っただけだし」

「………そうでしたか。では、差し出がましいことを申し上げますが」


 笑顔だったホテルウーマンが一変して、非常に冷酷な視線を真信乃に向けた。


「お客様は、お気持ちを察することができないのですか?」


 ―――〝思い〟に関する魔力を有する真信乃にとって、その評価はあまりにもショックで………腑に落ちないものだった。


「どういう意味だ?」

「お客様は、相手の気持ちを察することができないのですか?」

「だから、オレは襲ったりしないって言ってるだろ」

「そう言われたところで、お付き合いしていない……しかも、最近知り合った方を信用することなどできません。『俺は魔導士じゃない』と言われるくらい信用できません」


 例えは明確で分かりやすかったが、それが今回のことに適用されるとは思えなかった。


「それって、オレがそういう人間に見えるってこと?」

「そうではありません。どんなに信頼している相手でも、同室を受け入れられない女性はいますし、同室なら気を遣うことがたくさんあります。そんな状況で休めると思いますか?」

「そんなに気を遣うことなんかあるか?」

「それを想像できないから、お客様はあの方を怒らせてしまったのですよ」


 真信乃は言い返せなかった。言われたことに未だ納得できていなかったが、稀歩が怒ったのは事実だし、自分がそうさせたのは明らかだ。何故あそこまで怒ったのかは分からない。だからこそそれは、彼女の気持ちを想像できなかったために起きたことなんだろう。

 そう思うと―――真信乃に嫌な感情が生まれた。


「……………オレが、悪いのか」


 自分が最も忌み嫌う悪に成り下がったんだという事実。それに気が付くと、真信乃の気分は途端に沈んだ。


「オレが…………悪……」

「もう少し話し合い、彼女の〝思い〟を聞いてあげるべきだと思います」

「…………〝思い〟を聞く、か」


 真信乃は〝思い〟を自発的に聞いたことがなかった。相手の転生士が勝手にべらべら喋って聞かされたことは何度もあったが、他者の〝思い〟に興味などなかった。それは一般人相手にも同じことで、「この〝思い〟の量になった所以」に多少の興味が湧くくらいだ。詮索もしないし、どんな〝思い〟でも知ったことではない。

 しかし、今回ばかりは知るべきだと―――知らなければならないと真信乃は自身を一喝した。


「……………部屋、準備しておいてくれ。すぐ戻る」

「かしこまりました。お待ちしております」


 真信乃は踵を返し、ホテルを後にする。街はとっくに夜闇に包まれ、人の気配もない。こんな中どこへ行ってしまったのか、真信乃には皆目検討もつかなかった。空いている店もほとんどない。コンビニや居酒屋などを回ってみるが、稀歩の姿も訪れた様子もなかった。


「ったく………どこ行ったんだ」


 アテもなく探し回っては体力が無くなるだけだ。生身の身体で遠くへ行けるとは思えないが、それなのに見つからないということは―――真信乃は立ち止まり、思考をめぐらせる。


「………実は、魔導士だったのか?」


 ―――違う、と真信乃は否定する。稀歩を見つけられないのは、自分が彼女の気持ちを想像できないからだ。彼女のせいではなく、自分のせい。


「オレは、稀歩を怒らせた悪者だから……」


 自ら唱え、再びショックで項垂れる。誰かを傷付けることは絶対にしてならないと心に決めていたし、それ故、彼に悪意を抱く者はいなかった。生意気だ、変なやつだと思う者はいるが、彼から傷付けられたり損害を与えられた者はいなかった。


「……いや、落ち込むのは後だ。早く見付けないと」


 真信乃は再考する。

 もし自分が魔導士ではなく、行くアテが無かったら? 一晩どこで過ごす? 真信乃は即答する―――「野宿する」と。よほど天気が悪くなければ、そこら辺の公園で寝て過ごすと。

 しかし、稀歩はそうでないだろう。真信乃との同室を断ったのに、誰が来るかも分からない外で眠るわけがない。ならば、個室を取れるところに行くはずだ。一晩営業している、個室のある店―――そこまで考え、真信乃はふっと顔を上げた。


「ネットカフェ、カラオケボックス、スーパー銭湯……辺りか?」


 彼が思い付くのはそれくらいだった。とにかくこれらを当たってみようと、真信乃は近くの交番で場所を訪ねた。ここから一番近いのはカラオケボックスだった。徒歩で約二十分。真信乃の魔力は枯渇しているが、走れば入店前に間に合うかもしれない。地図のコピーをもらい、真信乃は急いで目的地へ向かった。


「はっ……はっ……はっ……」


 魔力無しで全力疾走するのは久しぶりだった。思うように動かない足にもどかしく、一日の疲労が一気にのしかかったように真信乃は感じた。五分ほど走っただけで彼は立ち止まってしまった。


「きっつ……」


 汗を拭い、息を整える。徒歩で先に進むが、これでは入店前に間に合わない。そもそもそこへ行っていない可能性もあるし、そこからまた探すとなるとさらに時間がかかる。最悪、一晩中探すことになるかもしれない。


「っ………」


 真信乃は再び走り始めた。まだ体力は限界ではない。かなりつらいが、まだ行ける―――自分を騙すように唱え、真信乃は夜道を駆ける。

 彼が急ぐ理由は、稀歩に謝罪し迎えに行くためだけでない。そもそも夜に少女が一人で出歩くことも危険だが、それよりも不安な事案―――まだ、昼間の魔導士は捕まっていない。


「―――ッ―――!」


 怒声が聞こえ、真信乃の心臓が跳ね上がった。方角は先の角を曲がったところ、声色は男だった。何を言っていたかは聞き取れなかったが、夜に叫ぶ者などろくな奴じゃない。真信乃は疲弊した身体を無理矢理奮い立たせ、戦闘態勢に入った。角を曲がり、状況を確認する。


「魔導士の世界を取り戻す!」


 男はつばを飛ばして叫んだ。振り上げた手には包丁が握られており、もう片方の手は相手の首を掴んでいる。男に拘束されているのは、桃色の髪をした少女―――。


「稀歩ッ!」


 真信乃は駆けた。男の振り下ろされた腕に飛びかかり、〝思い〟を吸い取ろうとする。しかしそれは叶わなかった。彼は瞬時に悟る―――こいつは、洗脳されている。


「まっ……マノセ君……!?」


 驚く稀歩の前で、真信乃は暴れる男に何とかしがみつく。その片手を彼女へ伸ばした。


「稀歩! 〝思い〟を……!」

「え……?」

「―――〝思い〟を聞かせて!」


 ―――間違えた、と真信乃は少し恥ずかしくなった。気持ちが先走ってしまった。〝思い〟を聞く前にこの男を取り押さえないといけないのに。


「稀歩―――ッ」


 言い直そうとした刹那、真信乃は振り払われた。その先にいたのは稀歩……彼女は真信乃と共に吹っ飛び、住宅の塀に背中を打ち付けた。


「いっ……!」

「稀歩、大丈夫か!?」


 真信乃はほとんどダメージ無く起き上がる。それは、稀歩が衝撃を受けてくれたからだ。痛みで悶える彼女の姿を見て、真信乃は怒りに震える。


「―――これは、オレが悪い」


 男が叫びながら駆けてくる。真信乃は稀歩の頭をひと撫でし、〝思い〟を吸い取った。その量は、以前のそれより多い。殺されそうになった恐怖と、傷付けられた悲しみが合わさった結果だろう―――オレのせいで。


「ごめん、稀歩」

「え……?」


 稀歩が真信乃に視線を向ける。真信乃は全身を強化し、次の瞬間、迫りくる男の包丁を避けて思いきり蹴り飛ばした。男の身体は道路を跳ねながら吹っ飛ぶ。それを追いかけ、追撃を加えようと真信乃は拳を振るう。すんでで避けた男は、起き上がりざまに真信乃へ頭突きした。脳に走る衝撃に、一瞬ふらつく真信乃。


「魔導士の世界を取り戻す!」


 男が駆け出す。その先は真信乃―――ではなく稀歩だ。再来する恐怖に稀歩は震え、逃げようと必死に身体を起こそうとする。しかし、当然間に合わないと分かりきっていた。起きる前に殺されると。

 だからこそ―――男もここへは間に合わないと想像もしなかった。


「ガッ―――!」


 男の背中に、真信乃が勢いよく飛びついた。首に腕が回り、呼吸を阻害される。もがく男にはっとし、力が強すぎたと真信乃は離れた。すぐさま腹を殴り、男は倒れる。息を確認し、気絶しているだけだと分かると、ほっと安堵した。


「ふう………殺さなくて良かった」


 転生士ならともかく、被洗脳者を殺すことはなるべく避けていた。ただ操られているだけの人間を悪だと言い切ることはできない―――最も、被洗脳者でも構わず殺す団員はいるが。


「ごめん、稀歩」


 真信乃は稀歩の元へ歩み寄った。跪き謝ると、彼女は目玉が飛び出そうなほど目を見開いた。


「マノセ君が……謝った……?」

「……なんだその反応は」

「だ、だって……マノセ君が謝るなんて……思ってなくて……」


 そんな風に思われていたのかと、真信乃は少し悲しいような、悔しいような気がした。


「オレだって、悪いときはちゃんと謝るし」

「そう………ですか」


 抱き起こされた稀歩は、塀にもたれた。騎士団に一報入れる真信乃を眺め、こてんと小首を傾げる。


「マノセ君、汗だらだらですね」

「え、ああ……そりゃ、全力疾走してきたから」

「まさか……ホテルから?」

「まあ……距離的にはそのくらいか?」

「そんな……魔法を使えば良かったのでは? 強化魔法……ですよね?」

「いや、違う。オレの魔力は、吸い取った〝思い〟をエネルギーに変換するんだ。強化魔法と同じ効果は出せるけど、誰かの〝思い〟を吸い取らないと発動できないんだ」

「……すごい魔力ですね」


 そう呟く稀歩の瞳には活力が無かった。真信乃のように戦い慣れしていれば多少の痛みも我慢できるが、そうでない一般人には苦しいだろう。真信乃はさらに罪悪感に苛まれる。


「………オレが傷付けたせいで、稀歩に怪我をさせたな」


 あまりにも自分を責める真信乃の言葉を、稀歩は慌てて否定する。


「そ、そんなことないですよ。魔導士が逃走中だって分かっていたのに、無防備に飛び出した私が悪いんです」

「違う。これは、オレが悪い」


 真信乃の拳が震え、強く握られる。


「稀歩を怒らせるつもりはなかった。けど、言い合いになった時点でオレに非があることは明らかだった。ちょっとムキになって、冷静な判断もできてなかった」

「マノセ君……」

「……正直、稀歩が怒った理由は未だに分からない。オレのこと信用できないわけでもなさそうなのに、じゃあ何が不安なのか………想像できない」


 でも―――真信乃は、黄色い瞳を光らせる。


「稀歩があんな風に怒ったってことは、オレが悪いってことだ。オレの態度が悪くて泣かせた。だから今回のことは、全てオレのせいだ。オレが稀歩を傷付けて怒らせて怪我させた」


 ―――ごめんなさい。

 真信乃は頭を下げて謝罪した。本気で自分が悪いと思い、誠心誠意の謝罪だった。〝思い〟を感じ取れなくとも、稀歩には分かった。それ故、彼女は不思議に思った。


「……どうして私があんなに嫌がったのかは、分かってないんですか?」

「ああ」

「それなのに、自分が悪いと思ったんですか?」

「ああ」

「私が怒ったから?」

「ああ」

「………それって、本気で謝ってます?」

「当たり前だ」


 真信乃は、そっと手を差し伸べた。


「〝思い〟を聞かせてほしい。稀歩がどうして傷付いたのか、怒ったのか……思ったことを教えてほしい。オレじゃ想像できない。オレは男だし、稀歩よりも年下だし、そういう経験も無いし……だから教えて。そうすれば次からは気を付けるから。もう絶対、稀歩を傷付けないから」


 怒られたから自分が悪い、でも怒られた理由は分からない、だから教えてほしい―――正直な子だと、稀歩は改めて思った。自分の〝思い〟に正直で、そしてそれを正直に明かす。

 そんな心からの〝思い〟を受けて、それを無下にするなんてことは―――私にはできない。


「………マノセ君を、卑劣な人間だとは思ってません。女性を傷付ける方だなんて、一ミリたりとも思ってません」

「うん」

「ですが………それでも、少し怖いんです。万が一のことを捨て切れないんです」

「うん」

「………ごめんなさい」

「うん?」


 顔を隠すように、稀歩は俯いた。


「私が弱いからです。マノセ君を信じきれない私が意気地無しなだけです」

「……………ん?」

「私がもっと強い人間だったら、マノセ君を信じることができたのに……そもそも私なんてそんな価値も無いのに、襲われるかもなんて馬鹿みたいに思っちゃって……」

「……何言ってんだ?」


 涙で滲む緑色の瞳が、真信乃を見上げる。


「今は、稀歩がどう思ったのか聞いてるんだ。強かったらとか、そんなのどうでもいい」

「どうでもいいって……でも、私が割り切れていれば」

「稀歩は、オレと同室で寝るのは怖いか?」

「…………怖いです」

「ならそれだけでいい。稀歩が謝る必要なんかどこにもない」

「でも、私が我慢できれば……」

「我慢できないから怒ったんだろ? それが稀歩の〝思い〟なんだから、もしもの話をしたってしょうがないし、最適解じゃないからって謝る必要はない。その理論でいくと、そもそもオレが女だったらって話になるし」


 そう言われ、稀歩は納得するしかなかった。ちょうどそこで、騎士団や警察が続々到着し、気絶したままの男を取り押さえた。骨折はしていたが、命に別状はなかったようだった。騎士団員の一人が真信乃へ駆け寄る。


「君が彼を捕まえたんだね?」

「はい。本部所属の神崎真信乃です」

「本部? どうしてこんなところに? 非番だったの?」

「ええ、まあ」


 彼女に事の顛末を説明すると、真信乃は稀歩を横抱きにした。


「えっ……!?」


 女性団員も、稀歩自身も目を丸くして驚く。


「まっマノセ君!?」

「一般人が怪我したから、オレが送ってきます。申し訳ないが、後処理はお願いします」

「それなら救急搬送してもらえば……」

「いや、そこまでではないですから」


 真信乃は現場を立ち去る。運ばれている稀歩は頬を赤らめ、残っている力でなんとか暴れた。


「マノセ君! 降ろしてください!」

「もう歩けないんだろ? 大丈夫。稀歩、無駄に〝思い〟が多いから、魔法使い放題」

「でもっ……!」

「なに?」


 真信乃の視線は道の先に向かっている。その横顔は、幼さと頼もしさが両立していた。自分よりも小さな少年に抱えられていること、そして真信乃が男であること……それが、稀歩に羞恥を抱かせる原因だった。しかし歩けないのも事実。幸い他に人はいないし、稀歩はそわそわしつつも彼の親切を受け入れることにした。


「マノセ君って、女性に対してドキドキしたりしないんですか?」

「しないな。オレは絶対に団長みたいにならないからな」

「団長さんは極端ですが……そうですか。マノセ君、年頃の男の子なのに……」

「なんだその残念そうな感想は」

「いえ、人によりけりですから。恋に落ちる音がしたら教えてください。からかいに行きます」

「絶対稀歩には教えないと今、決心した」

「むー、つまんないです」


 だんだんといつもの調子に戻っているようで、真信乃は少し安堵した。


「そういう稀歩は、男にドキドキしないの?」

「あの……マノセ君。ドキドキしなかったら私、とっくにマノセ君と寝てますけど」

「……それって、オレにドキドキしてるってこと?」

「勘違いしないでほしいんですが、マノセ君以外の男の人でもドキドキしてますからね。決して、マノセ君がかっこよくてドキドキするわけじゃないですからね?」

「な、なんでそんなに早口なんだよ」

「マノセ君に期待を持たせては可哀想だと思い、早急に誤解を解かせてもらいました」

「お、オレをかっこいいと思う人だっているだろうが!」

「マノセ君を? それはないですよ~。かわいいと思う方は大勢いると思いますが」

「オレはかわいくない!」


 むきになって怒る真信乃に、「そういうところですよ」と稀歩は優しく告げた。どういうところか全く理解できない真信乃は、不貞腐れながら道を進む。


「全然分からん……怒っただけなのに」

「マノセ君、ずっとこのままでいてくださいね。決して団長さんのようにならないでくださいね」

「それだけはあり得ないから安心しろ」

「それは良かったです」


 時刻はもうすぐ二十三時になる頃だった。街は完全に寝静まり、夜の世界に真信乃と稀歩、ただ二人だけだった。抱えられている彼女は、心地よい夜風と揺れで眠気に襲われる。


「うう………眠くなってきました」

「寝てもいいが、寝る前にシャワーくらい浴びたら?」

「そうですね……………あれ?」


 眠たい頭を上げる稀歩。


「マノセ君はどこに泊まるんですか?」

「外」

「……え?」

「野宿。騎士団の支部に行くのも面倒だし」


 稀歩の眠気が一瞬で吹き飛んだ。


「わ………私のせい………ですね」

「そんなんじゃないよ。野宿にも慣れてるし、一晩くらい平気」

「私のせいですよ! 私が、わがまま言ったから……」

「だから、それはわがままじゃない………って、オレが最初にそう言ったっけ………ごめん」

「いえ、マノセ君の言う通りです。私のわがままです」

「違うって。オレが分からなくて勝手に決めつけたことだ。稀歩の気持ちはわがままなんかじゃない」

「……だとしても、マノセ君に野宿させたくありません」


 そうは言っても、他に空室はない。この時間にキャンセルが入ることもほぼあり得ないだろう。


「泊まる部屋が無いのに、どうやって野宿を回避するんだ?」

「えーっと……」

「稀歩が我慢してくれるのか?」

「それは……すみません」

「な? だったら野宿するしかない。いいよ別に。家出した日も野宿したし」

「良くないです。せめて室内で寝泊まりしてください。ネカフェとか、カラオケボックスとか」

「あー……はいはい。まあ、検討しとく」


 検討だけはな、と真信乃は心の中で付け足した。稀歩をホテルに届けたら彼女の監視はない。故に、適当なところで野宿してやろうと真信乃は考えていた。宿泊は二人分にしておけばホテルの大浴場は貸してくれるだろうし、夕食もとっくに済ませている。布団があるわけでもないのに、わざわざ個室を取りに行くメリットが真信乃には思い浮かばなかった。

 だが、そんな彼の心を見透かしたのか、稀歩は疑念の目をもって見上げる。


「………やっぱりダメです。私、我慢します」

「できるの?」

「が………頑張ります」


 稀歩は笑顔を浮かべるが、ぎこちなかった。余計に無理をしていると分かってしまう。


「無理だろ?」

「い、いいえ! 大丈夫です! 朝飯前です!」

「あんなに怒ったくせに、今更何を言うか」

「そ、それはそうですが……でも、私のせいで野宿させるなんて……」

「野宿なんて慣れてるから大丈夫だって」

「ダメです! 嫌です!」


 急に駄々をこねる稀歩に、真信乃は呆れかえる。罪悪感を抱きたくないということか、しかし他に良い案などないのに―――そう思っていたが、不意にきらりと閃いた。


「じゃあ、交代しよう」

「え?」


 道の先に、ホテルの明かりが見えてきた。


「稀歩が五時まで部屋で寝る。五時からチェックアウトまではオレが部屋で寝る。これなら二人とも部屋で休めるし、文句無いだろ?」


 稀歩はじっと真信乃を凝視する。嘘が隠れていないか、入念にチェックしていた。それでも真信乃は堂々とした表情のままだ。それ故、稀歩は彼の提案を受け入れた。


「分かりました。それでいきましょう。絶対、五時に交代ですよ」

「分かってるって。集合場所はロビーな」

「了解です」


 ホテルに到着した頃には、稀歩の疲労は僅かに回復していた。真信乃に降ろされ、ホテルマンに連れられて部屋へ向かう。残った真信乃がロビーのソファーに腰掛けると、フロントのホテルウーマンにお茶を差し出された。


「ありがとう」

「良かったですね。仲直りできて」

「まあ………そうだな」


 渇いた喉を通る冷茶。動き回ったせいで、真信乃はあっという間に飲み干してしまった。


「それで、ご宿泊はどうされますか?」

「五時に交代で寝ることになった。それまでどっかで時間を潰したいんだけど……」

「それなら、二階にあるリラクゼーションルームをご利用ください。リクライナーがございまして、仮眠することも可能ですよ。夜間は日帰りのお客様もいませんし、ごゆっくりできると思います」

「なんだ……それがあるなら初めから言ってほしかった」

「言う隙を与えてくださらなかったじゃないですか」

「………む」


 それもそうかと、これ以上の文句はやめた。真信乃はフロントでタオルと寝間着を借り、大浴場に入った。のんびり湯につかり、温まった身体でリラクゼーションルームへ向かう。中には誰もおらず、多くのリクライナーが並んでいた。適当なそれに腰掛けると、ふかふかの椅子に身体が沈み、その気持ちよさに真信乃の顔がほころんだ。


「すご………こんな椅子、ほしいなあ」


 ひとり呟き、背にもたれる。静寂に包まれる薄暗い室内は、真信乃の眠気を誘い出す。自宅以外で眠るときは警戒をもっていなければと意識しているが、今日は慣れないことばかりでどっと疲れていた。

 少しだけ寝るか―――そう思ったが最後、真信乃は深い眠りについてしまった。



 翌朝、約束の時刻。ロビーでしばらく待っていた稀歩だが、ホテルウーマンが教えてくれた場所へ向かっていた。まだ朝早く、リラクゼーションルームは静寂に包まれている。奥へ進むと僅かな寝息が聞こえてきた。なるべく物音を立てないよう近付き、リクライナーを覗き込む。


「………マノセ君?」


 リクライナーで眠っている真信乃を、稀歩は小さく呼んだ。しかし起きる気配は全くない。無防備な寝間着の格好で、年相応のあどけない寝顔を見せながら寝息を立て続けている。稀歩は隣に座り、今まで見せられたことのない姿をまじまじと眺めた。


「こう見ると、普通の少年なんですねえ……」


 不意に真信乃が小さく唸り、寝返りをうつ。真正面に顔を向けられ一瞬どきっとしたが、稀歩はくすりと笑った。


「よく寝てますねえ、マノセ君」

「………………うーん………」

「よっぽど疲れたんですね」


 稀歩がゆっくり手を伸ばす。寸前で躊躇ったが、肌白い手のひらはそっと少年の頭を撫でた。


「――――――私のせいで、ごめんなさい」


 少女の懺悔は、誰にも聞かれずに消えた。

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