第四十六話 心の安寧(性描写あり)

「光基さ、その漫画のどこが好きなの?」

 躊躇いなく不知火築は訊いてくる。

 雑多な喧騒が入り乱れ反響する駅のホームにアナウンスの音楽が鳴る。駅のホームの中央の座席に僕達は座っていて、そこからはバスやタクシー乗り場の道路や、そこから繋がる大通りや、ビルやマンションや歩道橋、信号機、バスや自動車の灯りが俯瞰して見渡せた。僕は何気に、この景色が好きだった。

「……ただ単に、ストーリーが好きなだけだよ」

 あたりでも、はずれでもないような、建前だけの返答をした。だけど、そんな言葉は不知火築にとっては無意味だった。

「え、珍し。描写が過激すぎて、ついてこれる読者だけついてこい、みたいな漫画なのに。相当の変態じゃなきゃ読み進められないよ。それ、最新刊でしょ。今日買ってたやつ」

 不知火築の声は妙に落ち着いていて、それでいて喜んでいるようにも聞こえた。焦りから、腹の奥底が不可抗力な何かに拘束されているような気分になった。今見せている不知火築の態度は、学校のどこでも見たことのないものだったからだ。僕は不知火築の本心に触れているようで、そして不知火築が僕の心にずかずかと迫ってきているようで、怖かった。

「……」

 僕は黙った。

「まあ、読者には一般人に対して弁える人多いからね。そこらへんはお前もしっかりしてるんだ」

 不知火築の「一般人」という言葉の意図が、手に取るようにわかる。

 駅のホームに夜風が吹き、最新刊の入った書店のレジ袋が揺れる。僕はレジ袋越しにその漫画をしっかりと持った。

「別にその漫画のファン同士で話してるんだからさ、隠さなくてもいいだろ」

 不知火築は体を前に傾け、膝の上に肘を置いてすねた子供みたいに言った。その言葉にはちょっとした寂しさや切なさといったものが含まれている気がして、少し癪に障った。

 そして、不知火築は何でもないことのように、こう言った。

「その漫画の主人公のショタ、いるじゃん。俺さ、そいつがグロい目にあってるの好きでさ。割とそんなシーン多いだろ? 作者もそういうのが性癖だからさ、気に入ったんだよね。作者はショタのリョナが描けて幸せ、俺もそれで気持ちよくなれて幸せ。最高だよな」

 一瞬、不知火築の言葉を飲み込むのに、時間を要した。ショタだとかリョナだとか、自分しか知らないだろうと思っていたネット界隈での性的嗜好を表す用語を、あたかも相手がそれを知っているようなそぶりで話す不知火築が、「俺もこういう世界にいるんだぞ」と語りかけてきているような気がした。

「不知火、君……」

 僕はいつの間にか、名前を呼んでいた。僕に語りかける不知火築は、なぜか優しい人間のように見えてしまったからかもしれない。それに、不知火築の思っていることと僕の思っていることは、使う言葉は違えど、実質的には同じことだった。脳裏に、漫画の主人公が敵であるキャラクターに段々と腕を切られる描写が過り、僕の体温がじわじわと上がる。ここが駅であること、自分の世界と他人の世界を浸食させないように自分に言い聞かせること。このことが僕を正気へと戻してくれた。

「なに、お前も一緒?」

 不知火築は気軽に訊いてくる。僕は焦って何も言えず、レジ袋を持つ手の力をぎゅっと強めた。それは、肯定していると捉えられてもおかしくない動作だった。

 ――まもなく、特急列車が到着します。

 軽快な音楽が鳴り、駅のホームにアナウンスが響く。

「まあいいや」

 そう言い、不知火築は椅子から立った。不知火築は特急に乗って帰るようだった。僕は元々普通列車に乗って帰る予定だったから、心の中でそっと胸を撫で下ろした。

「じゃ、またな」

 手を振る不知火築を、僕は見上げた。不知火築は宣伝の看板の後ろの方へと周り、列車に乗り込んだ。

 ホームにいる人は僕しかいなくなり、またビルが立ち並ぶ景色へと視線を映した。僕はこの市全体の景色を思い浮かべる。ぽつぽつと並ぶ光に近似線を引いたみたいに突っ切る道路、そしてその道路がこの場所を中心にして広がって、光を跳ね返す濡れた蜘蛛の巣のようになるところを。

 僕は買った漫画をレジ袋から取り出して、表紙を見下ろした。主人公の少年と、敵のキャラクターの載った、いかにも王道バトル漫画と呼べそうな表紙だった。いい予感と、悪い予感のようなものが胸の奥深くで混ざり合って、鼓動が早まった。


 ***


 家に帰り、一通りやることを済ませ、僕はパジャマ姿で読書灯を付け、ベッドの上で買った漫画をぱらぱらとめくってみた。夜遅くまで図書館で勉強していたのもあって、疲労が溜まっていたから、そこまで話の内容に集中はしていなかった。

 序盤のあるシーンで、僕はページをめくる手を止めた。

 出血量は少なかった。

 少年が、野生のモンスターにダメージを与えられる場面だった。少年は痛みに顔を歪ませ、腕の切り傷から血を流していた。

 うんざりする気持ちと、昂りが、僕の中に同居する。体温が上がるにつれ、僕のそれは興奮していった。

 ――作者はショタのリョナが描けて幸せ、俺もそれで気持ちよくなれて幸せ。最高だよな。

 頭に、不知火築の言葉が過り、それでも僕は自分の中で沸々と湧く衝動を抑えられなかった。僕の中にインプットしてきた知識だったり景色だったりは今だけは完全に吹き飛んでしまい、血を流す少年の体格や等身や表情が、僕を心の安寧へと連れて行ってくれた。

 僕を否定する人間は、誰一人としてこの場にはいなかった。

 

 


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