第四十五話 相反

 都心からの星空は、覗き込もうとしないと見ることが出来ないのだと、いつの間にか僕は知っている。街路にぽつぽつと灯る光、走る自動車のせいで伸びる光、ビルやマンションの窓から漏れる光、塾や電気屋などの宣伝が灯す光。僕が星を見たいと思わなければ、目に映る光の源が何であるのか分からない。

 人の少ないバスの中で、僕はふと茶色のベルトの腕時計を見下ろす。ガラスには僕のなんでもない瞳が映し出される。使い始めて一年半は経つだろう。

 図書館の夜の静けさや、乗っているバスの乾いた空気に、自分がいつの間にか慣れている。そしてこの中に、自分が日常的に存在しているという事が、何気なく僕を驚かせた。中学と高校とでは、こうも目の前に横たわっている景色の色や密度や移り変わりが違うものなのかと、僕は思う。

 何気なく隣に置いたバッグから取り出した単語集をぱらぱらとめくる。単語ずつに赤シートで意味の欄を隠し、頭の中で意味を思い出してアウトプットしてみる。中学生の頃は、僕の頭の中に入ってくる情報量がこんなに多くなるとは、僕はあまり想像ができなかった。試験では英単語を二、三百個覚えることはざらにある。でも、人は意外とそれを当たり前とする環境に置かれたら、いつの間にか慣れてしまっているのだ。中学生の頃のおどおどした僕だったら、夜中の都心にバスに乗っているというだけでも、薄い毒ガスを吸っているような気分になっていただろう。

 バスが駅に到着し、バス乗り場に足を付ける。僕の家の周りじゃ考えられないくらいに、駅のバス乗り場には人がそこそこ行き交っている。部活帰りの学生や、一目で上司と部下の関係だと分かるスーツを着た大人たち。ドーナツ店やパン屋など、大きな乗り場に寄り添うように様々な店が並んでいるのを見ると、僕は社会が灯す光に守られているような気がした。

 ホームに行く前に、今日は寄りたいところがあった。

 僕は乗り場の隅にある幅の狭いエスカレーターに乗り、四階へと向かった。駅のホームが見渡せる狭い通路を進むと、こじんまりとした書店に行き着いた。

 そこは光に満ち溢れていて、人々は併設されているガチャコーナーでお目当てのものを手に入れようとしたり、受験のための赤本をぱらぱらとめくって立ち読みしていたりした。

 今日は、僕の気に入っている漫画の発売日だった。

 歩きながら僕は、初めてあのアニメの戦闘シーンを見たときのことを思い出す。忌々しくて、それでも頭から引っ付いて離れない記憶。少年の腕が欠損したり、そこから多量の血が流れていたり。僕の異常さに気づかせてくれたあの漫画と、僕はどう向き合えばいいのか分からず、今でもこうやって新刊を買いに行っている。

 僕が今からやろうとしていることは、ただの性欲の発散のための、自分勝手な行為だ。誰も傷つけないし、僕から自分の事を打ち明けない限り、ただの漫画のファンだと思われるだけだ。僕は一生自分の性的嗜好と付き合っていかなければならないと分かった瞬間、躊躇いも、後ろめたさもなくなった。自分の中の世界でだけ、自分の性的嗜好に対して開き直った態度をとるようになった。その方が気楽だし、誰の迷惑にもならない。

 漫画の新刊コーナーへと足を運ぶ途中、小説の単行本コーナーが目に入ってきた。そこには、優の小説も置かれていた。帯には、「『パラフィリア』で衝撃的なデビューを果たした十六歳の高瀬悠が描く、驚愕の第二作!」とでかでかと書かれていた。優の存在が、少しだけ遠くなっていくように思えて、僕はそっと目を逸らした。優の書いた『パラフィリア』の次作も、僕は自分で購入して読んだ。小さい頃にノートに記されていた優の独特な文体が、この単行本に印字されていると思うと、感動と、不思議な気持ちが同時に湧き上がってきた。そのことを、僕は覚えている。

 僕は漫画の新刊コーナーへとたどり着き、目当ての漫画を手に取った。この漫画を知って、後で分かったことなのだが、漫画の作者も、少年少女が残虐な目に合う作品を好んでいるらしい。漫画のファンたちには彼を神格化する人も多く、また「変態」だとか「異常者」といった言葉を誉め言葉として用いる人もいる。創作者というものは、何か「異常」と呼ばれる性質を持っているものなのかもしれないと、僕はそれを知ったときに思った。

 レジへと足を運ぼうとした、その時だった。

「おい、それ、その漫画……!」

 その時、僕の意識は、他者との関わりを隔てる薄い膜のようなものを一気に破壊した。後ろから聞こえてきた声は、聞き覚えのある声だったからだ。

 僕は恐る恐る振り返った。

 クラスメイトである不知火築が、楽しそうな表情でそこに立っていた。三白眼に、ぼさぼさとした短髪。頬に少しだけニキビができており、制服の着こなしは少しだけ崩れていた。

「お前、光基だっけ? その漫画、好きなの?」

 にやにやとした口調で、不知火築は尋ねてきた。僕は小さく頷いた。僕は、不知火築のことが、少しだけ苦手だった。生徒にダルがらみしたり、教室でスマホゲームをしながら叫んだり、迷惑なイメージを周りに与える人だからだ。しかし成績はトップクラスで、今まで学校の中で大ごとになるほどの問題行為を起こしているというわけではないのだ。僕はその、要領が良ければなんでもいいというような不知火築のやり方が、衝撃的で、自分のやり方と相反するものであると感じていた。

 漫画を手に取る僕を見つめる不知火築の目はまさしく仲間を見つけて喜んでいる類のもので、僕は少しだけぞっとした。しかし、僕は同時にこう思ってもいた。『もしかしたら、本当はいい人なのかもしれない』と。

 不知火築は楽しそうに、こう言った。

「俺さ、その漫画の大ファンなんだよね」

 

 

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