第四十三話 仲良しごっこ

 僕が手を離すと、司はその場で膝から崩れ落ちた。駅のホームには人は数人しかいなかったが、誰もかもが僕達を見ていた。人の少ない昼間の空気は、一気に張り詰めたものへと変わった。

「馬鹿ですよね、僕」

 司は消そうとしても消えない鉛筆の跡みたいな、掠れた声を出した。

 僕は黙っていた。司が馬鹿かどうかは、司自身が一番分かっていることだと思ったからだ。

「ここまで人に迷惑かけて、死にたいとしか考えられないんですよ。ちょっと失敗したくらいで傷ついて。そしていっつも自己嫌悪って感情に逃げて。いつもの癖なんですよ。治した方がいいって分かってるのに、治らないんですよ。馬鹿すぎますよね」

 僕の心臓は、沸騰寸前のやかんのようにぐつぐつと音を立てているような気がした。僕は、自分でも信じられないくらい、腹が立っていた。

「馬鹿だって肯定したら、司はまた自分を傷つけるんでしょ」

 こんなことしか言えない僕が、嫌いになる。

 少しだけ沈黙が流れる。その時間を、僕は司に事実だけの残酷な言葉を送ってしまったことを認めるのに要して、司はその言葉を飲み込むのに要した。

「どうして先輩は、そんなに人と接するのが上手なんですか」

 司は、確かにそう言った。

「上手って……」

 僕は、夜野先生に「お二人の関係が羨ましい」と言われたことを思い出す。その時も、自分に対する印象と、他人からの自分の印象が食い違っているのを感じた。そんなに僕は、上手く生きることが出来るような人間に見えているのだろうか。

「僕、いつかの高瀬悠先生の記事を読んだことがあります。そこで、高瀬悠先生はこう言ってました。『俺には同性の、とても身近で、大切な人がいます。その人に、今は生活を支えてもらっています。ちょっと変わった人で、パラフィリアの主人公のモデルにしたんです』って」

 心臓が、どくりとまた脈を打つ。

 体全身に焦りと、今すぐにでも逃げ出したい恐怖が湧いてくる。

「そのモデルって、清水先輩ですよね?」

 自分が、崩れてしまう気がした。今立っているコンクリートの地面がガタガタと揺れ出し、線路はぐにゃりと湾曲し、立てられている広告は全て倒れ、屋根にぶら下がっている蛍光灯はバリンと割れていく。そんな錯覚が、僕の脳を支配した。

 今まで保っていた自分が、崩れた。

「だから、何だよ」

 僕は強引に司の胸倉をつかんで、引っ張り上げた。司の軽くもなく重くもない体の感触がして気持ち悪い。司の表情は恐怖で青あざめていて、それでも、助けを求めているようでもあった。理屈では分かっていても、痛みが分からなければ、成長なんてない。

 呪縛から逃れられない自分を全てさらけ出したくなったのか、司は悲痛な声ですべてを吐き出した。

「周りとは違うのに、どうしてそんなに先輩は体裁を整えるのが上手なんですか? 先輩は、こんな尺度の違う人間だらけの社会を生きてて、なんでそんなに正気を保っていられるんですか? なんでそんなに、色んなことを割り切って考えるのが上手なんですか⁉」

 涙を浮かべて、最後に司はこう言った。


「人間関係って、ただの仲良しごっこなんですか……?」


 ――自分は常識人です、みたいな顔しやがって!

 バチンと、僕は司の頬を叩いていた。

 誰かを叩くのは、人生でこれが初めてだった。

 怖かった。自分が、崩れてしまいそうで。異常な部分を曝け出さずに他人と接している自分は、嘘の自分じゃなくて、本当の自分だと思っている。でもそれは、自分の中で勝手に思っていることに過ぎない。自分を保つために自身に言い聞かせてきたことが、異常な自分を正当化するための理由になり果ててしまいそうで、怖かった。

 司は、呆気にとられたような表情で、口をあうあうと無意識に動かしている。

「……これで、気が済んだでしょ。僕からは、何も言わないよ。自分の何が悪かったのか、自分が一番分かってるはずでしょ。なら、ちゃんと考えて」

 僕は手を離し、司を解放した。司は少し後ずさり、ただ、泣きながら俯いていた。

「あと、もう二度と、そのインタビューの内容を口に出さないで。やけになったからって、やっていいことといけないとは、ちゃんと区別できるようにならないといけないよ」

 自分の事ばっかり、僕は口に出して。本当に、僕は馬鹿だ。

「すみませんでした……」

 司はぼそりとそう呟いた。普通列車が到着することを伝える無機質なアナウンスが、また響いた。

 

 ***


 あの後、僕は司を車に乗せ、書店へと向かった。僕と司は、一言も言葉を交わさなかった。バイト中も、その帰りも、言葉を交わすことはなかった。僕も司も、同様に考える時間が必要だった。

 バイトから帰って、自室の電気を付け、扉に背中を預けた。誰もいない、他者から隔絶された空間に、僕はこれ以上ないほどの安堵感を覚えた。そのまま僕はしゃがみ込み、馬鹿みたいに泣いた。

「もう嫌だよ……! もっとなにか、なんかあったでしょ⁉ 先輩ならもっと、何か言えたでしょ⁉ そんなに自分、他人に興味ないの⁉ なんで僕ってこんなに冷たいんだよっ!」

 僕は久しぶりに、自分の頭を叩いた。痛みが欲しくて、それでも本当の痛みを受けるのを怖がっている感覚が、懐かしくて、気持ち悪かった。

 自分を殴るのをやめて、僕は膝に顔をうずめた。

 ……司、僕だって、こんなにかっこ悪いんだよ。完全な人間なんていないんだよ。最初は痛いかもしれないけど、他人との痛みと沢山出会っていく度に、耐性はつかないけれど、自分の心の癒し方とか、発散のさせ方とか、そういったものを覚えていくもんなんだよ。

 僕は、とりとめもない言葉で、そう思った。

 それとは反対に、自分を正直にしてくれる優がいないことに、僕はとてつもない寂しさを覚えていた。

 

 

 


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