第四十二話 痛みをおしえて

 司に何かあったんじゃないかと、あんなに頭の中で衝撃が走ったのに、自分の思っていたより簡単に眠りに落ちることができてしまった。ただ単に疲れていただけなのか、それとも、他人のことは他人のことであるとどこかで割り切っている冷めた自分がいたのかはわからない。だけれど僕は、そんな自分自身を少しだけ軽蔑した。

 バイトに行くまで特にすることがなかったから、僕はただご飯を食べたり、自分で買った専門書をベットの上で黙読したりしていた。平静を保とうとしている自分に辟易して、面白いくらいに内容は入ってこなかった。

 司に何か連絡するべきだろうか。「ちょっと落ち着いた?」とか「昨日は大丈夫だった?」とか、簡単な言葉はいくらでも思いつく。僕はぐるぐると思考を重ね、結局、なにも送ることができなかった。僕は、いつでもそうだった。相手から愚痴を言われたりしたら、僕はどう言えばいいかしどろもどろになってしまう。相手の領域にどこまで踏み込んでいいのか、僕は未だに分からなくなる時がある。

 昼食を済ませ、重い体を動かして外に出た。曇天模様で、少し肌寒かった。

 

 ***


 駐車場に車を停め、エンジンを切ると、スマートフォンがバイブレーションを鳴らしたのをバッグの中から感じた。もしかして、と思う。もしかして、司から……。

 家にいる間、ずっと考えないように、自分までもが壊れてしまわないように目を逸らしてきたからなのか、心臓が高鳴っていた。もし司からの着信だったら、僕はなんと返信すればいいのだろう。自分を保つのに精いっぱいな僕は、司に、どう接してやるべきなのだろう。

 隣の座席に置いたショルダーバッグのチャックを開けて、スマートフォンを取り出す。本棚の写真のラインアイコンの通知がロック画面に映し出され、一瞬息が止まった。

 通知は、アイコンだけでなく、送信した文面もそこに映し出している。その文面の全てに目を通すために、アプリを開く必要はなかった。その通知に書かれていたのは、たった数文字の短い文章だった。


『痛みをおしえて』


「司⁉」

 そう叫ぶと同時に、僕はまた車のエンジンを入れていた。体の全身に虫の走ったような悪寒と、焦る心臓の鼓動が響いて、頭の中は一気に真っ白になった。

 司、お願いだから、それだけはやめてくれ。

 司は、何も分かってない。嫌でも分からなきゃいけないんだよ。僕だって、何もかも完璧な現実の中で生きていたい。でも、この現実の中でなんとか折り合いをつけていかないと、僕達は生きていけないんだよ。

 もうこれ以上、司に、自分を傷つけるようなことはしてほしくない。

 僕の脳裏に、昨日の赤色に滲んだ司の腕がちらつく。

 司に対する憤慨と焦りが混ざり合い、近くの駅へと、僕は発車した。

 

 高瀬悠の紡いだ物語、『痛みをおしえて』には、こんなシーンがある。

 物語の中で、痛みの分からない少女と、自分の体を傷つける癖のついた少年は、こんな約束をする。直接助けを求めることが苦手な二人は、誰かの迷惑にならないように、心のSOSを表したいときは『痛みをおしえて』とメールで送り合うことを約束するのだ。

 物語の終盤、死にたくても死ねない少女は、通学路の駅のホームで『痛みをおしえて』と少年にメールを送る。少女が駅のホームにいることを知った少年は、少女のもとに駆け寄り、少女の自殺を食い止めるのだ。


 ***


 司の最寄り駅まで車を走らせ、駅前で車を停め、車から降りて僕は駆けだした。財布に入っているニモカで改札を抜け、驚いてこちらを見ている人たちを無視しながら階段を駆け上がる。

 司を助けることだけを考えて、僕は走る。

 ――まもなく、一番ホームに、特急が通過します。

 軽快な音楽が鳴り、無機質なアナウンスの声が駅内に響く。

 階段の手すりの先を持つ手に力を入れ、僕は階段を登りきる。

 通路に出て、一番ホームへと階段を下りる。

 お願いだから、間に合ってくれ。

 司、お願いだから、自分を大事にしてくれ。

 司、お願いだから、何もかも投げ出そうとしないでくれ。

 ほとんど運動をすることがないからか、自分でも大袈裟だと思うくらいに息が上がる。

 でも、それを押し殺して、僕は前へと進む。一番ホームが僕の眼前に伸びて現れる。

 俯いた司が、そこに立っていた。

 ――危ないですので、白い線の内側までお下がりください……。

 ゆっくりと司は線路へと足を進める。

 心臓がこれまでにないくらいバクバクと僕の胸を叩く。

「司っ!」

 僕は司めがけて走り、何もかも投げ出そうとする司の手を掴んだ。

 

「清水、せんぱ……」


 轟音が、聴覚の全てを奪う。

 強風が、近くにある死への恐怖をせり上がらせる。

 慣性のまま白線の前へと傾いた司の体が、そのまま止まる。

 心臓が、肺が、僕の体に息を吸うことを許す。

 僕が司の腕を掴んだ状態のまま、特急列車は通過していった。

 

 

 


 

 

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