第四十一話 そういうもの

「どうして、こんなことになっちゃうんでょうね……」

 バイトが終わって、僕と司は一緒に書店を出た。まだ夕焼けとは言い切れない空が住宅街を覆っていた。通り過ぎる風が少し涼しかった。心の中にどす黒いものが棲んでいる気がして、空の色の鮮明さも、空気の匂いも、車や人々の喧騒も、情報として僕の中に入ってこない。後悔と気まずさが同居して、僕は司に何も言ってやることが出来ない。

「自分を嫌いになっちゃいけない。自分を咎めておけば誰もが自分を許してくれるなんて、大間違いだ。ただの迷惑だって、僕はそう、小説に書いたはずなんですけどね。なんでまた、やっちゃうんでしょうか。何回繰り返せば、僕は気が済むんでしょうね」

 品出しを間違えたことが問題じゃない。自分をどうしても許せないことが問題だ。僕は簡潔にそう思った。だけれど僕は、「人間誰しも間違いがある」とか、「そんな小さなこと一々気にしていたらきりがない」とか、そういった言葉を司にかけるのは違うと思った。きっと司は、そういったことが分かっている。そのうえで、司はああやって蹲ることしかできなかったんだ。

 司はだらんと下げた右の二の腕を、左手でつかんだ。爪が食い込んでしまうんじゃないかというくらいに、強い力でつかんでいた。半袖の司の腕が、少し赤くなるのが分かった。

「僕はただ、誰にも嫌われたくないんですよ。きっと。自分を嫌いって言っておけば、思っておけば、自己中心的な自分を隠して生きられる。ずっと馬鹿馬鹿しい考えにばっかり縋って生きてきたんです。注意されて当然です」

 司の声が、司自身を傷つけている。

「司……」

「ごめんなさい。何も言わないでください」

 司は早足になって駐輪場へと向かった。きっとどんな言葉を司に届けても、無駄だと思った。「そんなことはもう分かっている」と突き返されるだけだ。第一、僕と司はバイト仲間の関係だ。言ってしまえばただの他人。無理して司を擁護する立場にも、励ます立場にもいない。僕は司の背中を見ながら、そう思った。

 楽しそうに書店へと入っていく家族や、新作ゲームの宣伝、町中に流れる流行りの音楽、すべてが、感情のない飾りのように感じた。


 ***


 ああ、またこの夢だ。

 赤と白の沼、何処までも真っ暗な世界。僕はもう、瞳孔を開き続けることに慣れてしまって、相変わらず重い足取りで前へと進んでいる。この沼にも慣れてきたと思った頃、何処からか声が聞こえる。

 ……ねえ、この沼は何?

 泉のような声が、響いて聴こえる。何よりも純白で、自分もこんな存在だったと思えて、そして、受け付けたくなくなる声だった。

 ……怖いよ。誰か入り方を教えてよ。

 うるさい。

 ……ずっと、こういう沼があったんだ! ずっと避けてきたんだ! 自分が歩きやすいところを歩いてきたんだ! でも、でも! ここからずっと沼の道なんだよ! 嫌だよ! ありえないよ!

 うるさい。

 僕は歩みを止める。足元がヒリヒリと痛くなって、この場所にいることに麻痺している自分に気づき、吐き気がする。声のする場所へ行って、その口を塞いでやりたい。でもそれはできない。決してできない。

 僕は歩く。ただ歩く。この沼はだと思って、自分の意志で歩くしかないんだ。だから、これ以上僕の心を痛めつけないでくれ。僕だって怖い。誰だって怖いんだよ。僕の同居人も、その友人も、誰もかも。


 ……ねえ、誰か教えてよ! 歩き方を教えてよ! 怖いよ! 怖いよ!


 ***


 頭をごつんと殴られたような感覚がして、僕は目を覚ました。そこは誰もいない自室で、部屋は真っ暗だった。外気に長い間触れてきた自分の肌や衣服が、ベッドのシーツや布団にこびりついているような感覚が気持ち悪くて、僕は体を起こす。

 バイトから返ってきて、溜まった疲労が自分の思考を断つように、ベッドの上で着替えずに寝てしまったことを僕は思い出す。

「嫌な夢だ……」

 僕はぼそりと呟いた。

 さっきの夢の中での声が、ぼわんぼわんとシンバルの音の余韻のように頭の中で響き渡る。さっさと目を覚ましたくて、手探りで枕の上にあるリモコンを取って電気を付ける。

 リビングに出て電気を付け、レースカーテン越しに外が暗くなっているのが分かる。僕はカーテンを閉め、冷蔵庫に作り置きしていたカレーを取り出してヒーターの電源をつけて温めた。

 一人で夕食を済ませて、自室に戻る。優がいないと、こんなに部屋が静かなんだと、僕は泣きそうな気持になる。優はこういったとき、僕の気持ちを正面から受け取ってくれた。ただ、話し相手としてそこにいるだけでいい。何か、僕の寂しさを紛らわすものが欲しい。

 そうだ。と僕は思う。

 司の小説は、どうなっているのだろうか。

 僕は司の今の気持ちを知りたかった。あの時何も言ってやれなかったことが、今になってみると情けなかった。他人だとか、バイト仲間とか、そういうことじゃない。友達の一人として、力になってあげたかった。

 自分勝手と言われてしまえばそれでおしまいだ。

 直接ラインで連絡を取ってみるのは、少し怖かった。何か、司のことが知れる何かを見たい。茫漠とした気持ちが僕を突き動かし、ベッドに放り投げたスマホへと手を伸ばした。

 ブラウザを開き、小説サイトにログインする。

「……あれ」

 それを見たとき、僕はまだ寝ぼけているんじゃないかと思った。

 もう一度、フォロー欄を確認する。

「司……」

 フォロー欄には、ツカサの字はなかった。作品のフォロー欄にも、ツカサの小説はない。


 司は、小説を、アカウントごと消したのだ。

 

 

 

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