第三十九話 現在地

 書店のバイトが終わるころには、昼間の晴天とは違って雨が降っていた。土砂降りというわけでもなく、小雨というわけでもない。優柔不断な神様が天気を決定できないまま降らしたような雨だった。

 僕と司は書店のコーヒー店で、向かい合って座っていた。窓際の席だから、駐車場の出入りをする車だったり、雨で慌てて車に向かっている人だったりが見える。

「はい。これ、サイン本」

 ショルダーバッグを開け、僕はサイン入りの『パラフィリア』を渡した。

「ありがとうございます」

 司はプレゼントの箱を開けるような手つきで表紙をめくり、高瀬悠のサインを目にした。司の口元は緩み、目元は泣きそうなくらいに優しくなる。いつもの司の元気っぷりとの差に、僕は少しだけ驚いた。

「やった……。これ、本物のサインだ……」

 僕は『パラフィリア』の本扉に視線を移す。たかせゆう、という平仮名の文字に、パラフィリアに出てくる主人公の愛犬のマークがちょこんと添えられている。優の心の内にある優しさを、そのまま表したようなサインだった。

 司は『パラフィリア』を閉じ、そのまま大事そうに両手に持った。司の親指に少しだけ力がこもり、口がきゅっと結ばれる。何かを告白しようか、迷っているような表情だった。

 ガラスに雨粒が当たる音が、司を急かしているように聞こえる。沈黙の後、司は口を開いた。

「あの、これ、言ってませんでしたよね。僕がネットで小説を書いてるってこと」

 意外だとは思わなかった。僕も少しだけ、小説を書いてみたいと思った時期があったからだ。読書が好きな人に、そういった感情が湧いてくるのは不思議なことではないと思う。

「自分語りになってしまうんですけど、僕、こんな、元気な感じだと思われることがよくあるんですけど、全然そんなことなくて。僕が小学生の時、全くクラスに馴染めない人間だったんです。一回、理科の授業だったかな。その時に僕が意見を言ったら、皆から馬鹿にされるというか、いじられたんです。ほら、そういうの、学校の中でよくあるじゃないですか」

 僕は黙って頷いた。僕も、似たような光景を目にした記憶がある。

「僕、その中でかっとしてしまって、溜まってしまった怒りを爆発させて、皆に迷惑をかけてしまったことがあったんです。物や人に当たって、自己嫌悪を募らせて……。親に、心の病院に連れていかれたこともありました」

 僕は、ごくりと唾を飲み込んだ。司は今、深刻な話をしている。いつもより口調が不安定で、おぼつかない。

「前に親が、十七歳でデビューした小説家がいるみたいだってことで買ってきた小説があって、それが高瀬悠先生の『パラフィリア』だったんです。その頃はまだ単行本で出ていて、一読して、僕は驚いたんです。まるで自分の事が描かれているみたいで……。僕は、それに触発されるように、ネットでの居場所を見つけて小説を書き始めたんです」

 司は文庫本の『パラフィリア』を後ろからめくり、とあるページで手を止めた。あとがきの章だった。

「文庫版が出て、僕は読み返してみたくて、あとがきも読んでみたくて、買ったんです。すると、あとがきに、これだって思う文章があって。確か、そう。『俺にとって小説を書くことは、自分の現在地、今立っている場所を見つめることです』って書いてあったんです。その文を見たとき、同じだって思ったんです。僕は、小説を書いているとき、ずっと自分を見つめていたたんだって。たとえその小説が読まれなくても、僕はずっと、自分の小説に満足していたんです。自分の事が分かって、自分の感情の落ち着かせ方も分かって、僕は本当に、高瀬悠先生に感謝しているんです」

 ――不器用な人間のありのままを書いた小説が好きな奴なんて、そいつも不器用な人間に決まってるよ。

 優の言葉が、脳裏を過る。

 司の口元がふっと緩んだ。

「ありがとうございます。こんな話聞いてくれて」

「ううん。こっちこそ、話してくれてありがとう。僕の同居人も喜ぶよ」

 そう言うと、司はははっと笑った。

「そうだ、清水先輩、僕のネットでの投稿アカウント、知りたくないですか?」

「気になりはするけど、そういうの、自分で明かすものなの?」

「全然いいですよ。はい、このサイトの、ツカサっていう名前です」

 司はスマホを出して、そのサイトにある司のプロフィール欄を見せた。『ツカサと申します。自分と向き合うために小説を書いています。よろしくお願いします』と、プロフィールには簡素な文で書かれていた。

「本名でやってるんだ」

「まあ、ツカサなんてありふれた名前ですし、こっちの方がしっくりくるんで」

「そう、じゃあ、こっちにアカウント作ってみようかな。時間があったら読んでみるよ」

 プロフィール欄の下には、まだ一つしか投稿されていない小説があった。小説の詳細には十万文字という記載があり、僕は目を見張った。

「すごいね。十万文字……」

「ありがとうございます。感想、楽しみにしてますね」

 司の笑った顔は、とても純粋なものに思えた。優の小説が誰かに影響を与えている。その事実が何だか面白くて、僕も笑った。きっと、優の抱えているものは、辛いことだらけの事実だけじゃない。僕はそう思えた。

 

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