第三十八話 小説家仲間

「あんがと。すっきりした」

 体には優の体重の余韻がやんわりと残っていた。僕の前でだけ泣ける。優の言葉が僕の胸を痛いくらいに締め付け、僕はぎゅっと拳を握った。窓から差す昼の日差しが、僕と優をゆっくりと許容してくれている気がした。

「優くん……」

 どう言葉をかけていいか、僕には分からなかった。

 優は窓から眩しいマンションやビルが立ち並ぶ景色を眺めながら、ふっと口角を上げた。

「ま、こういう時もあるって」

 オレンジ色のガーベラが、頭の中で優の笑みと重なる。

 あ、いつもの優に戻った。僕はそう思った。僕には優の言動が、強がって心を閉ざしているようには全く見えなかった。単に優は、自分の心の内をさらけ出して、その反動で恥ずかしくなっているだけなのだ。そういうことが何度もあったから、もう慣れている。

「ふふっ……。じゃあ、またお見舞い来るね。」

 僕は立ち上がりながら言った。ショルダーバッグにはきちんとサイン本が入っている。

「ああ」

「あと何日かだから、それまでの辛抱だね。じゃあね」

「じゃあな」

 そう言って僕は振り返った。仕切りカーテンをめくり、病室を出ようとした、その時だった。見覚えのある人物が同時に病室に入って来たのだ。整った顔立ちのその人は、僕に目を合わせると、余裕気な高い声で「あ、こんにちは。清水さん、偶然ですね」と言った。

「よ、夜野先生。お久しぶりです」

「いいですよ、そんなにかしこまらなくて」

 夜野先生は砕けた表情で言った。

 紺色のTシャツにベージュのズボンというラフな格好の夜野先生からは、完全にプライベートの状態であることが見て取れた。

 僕からの夜野先生への印象は、陳腐な表現だが、余裕のある大人の優しい女性、という感じだった。夜野先生は落ち着いた美しい文体の、登場人物それぞれに焦点を当てていくような構成が特徴の物語をよく書いている小説家で、女性読者を多く獲得している印象だ。勿論僕も、読者の一人だ。

「あれ、夜野先生来てるの?」

 レースカーテン越しに優の気の抜けた声がする。僕は小さく笑い、夜野先生に言った。

「行ってやってください。優、意外と寂しがり屋なんで」

「ああ、なんか分かります」

 夜野先生も小さく笑ってそう言い、少し間を開けて、こう続けた。

「あの、お時間があれば、後で下の方で少しお話していきませんか? 話してみたいことが沢山あるんです」


 ***


 お見舞いの後、僕と夜野先生は大学病院の一階にあるチェーンのコーヒー店で雑談をしていた。

「羨ましく思う時があるんですよね。お二人のこと」

「いや、大変ですよ色々と。今回みたいに骨折するときだって、きっとこれから何回もあるんでしょうし、切り傷が知らないうちにできたりするのは日常茶飯事です」

 僕は微笑みながら言った。僕は何となく梓との会話を思い出していた。だけど、あの時とは違って、自分を取り繕っている感じも、気まずさも全くない。ただただ、大物作家の偉大なオーラのようなものを僕は感じ取っていた。多分、これには司が高瀬悠先生を絶対視している感覚と近いものがある。

「ああ、そうでしたね。すみません。大変ですよね、あの病気は……」

「はい。現代の医学じゃ、まだ治療法は見つかっていないそうなんです」

 そこまで言ったところで、僕は一瞬、医学部に進学した理由を話してみようかと思ったが、やめた。ここでするような話ではない気がした。僕はアイスコーヒーを一口飲んでから言った。

「まあ、二人での生活は、凄く楽しいですよ」

 今度は、きっぱりと言い切る。夜野先生ははっとしたように僕の目を見た。

「勉強中に原稿が~とか締め切りが~とか焦っている声が聞こえて来たり、朝から創作論をたっぷり聞かされたり。毎日そんなもんです」

「ふふっ。え、創作論って、どんなことを話しているんですか?」

 夜野先生は喰らいついて訊いてくる。

「なんでしたっけ、ああ、例えば『人物同士の掛け合いはね、この人物だったら何を言うのかとか、性格やら口調やらを考えて書くものなんだよ』とかですかね」

 夜野先生はまた笑って言った。

「すごいです。優さんの声で再生されるというか……。いやあ、優さんの作風って、ユニークで面白いです。私にはないものが沢山あるんですよね」

「確かに作風は全然違いますよね。夜野先生の暖かい感じとは違って、ちょっと棘があるというか、世間を穿った目で見ているというか」

「ああ、そうですね」

「僕、あの中に純粋な感情が混じっている感じが好きなんです。うまく言い表せませんが」

「あ、すごくわかります。尖っているようでまだ青いというか。この前の『痛みをおしえて』もすごくよかったです。痛みの分からない少女が『痛みをおしえて』とメールを少年に送ったら、それが心のSOSのサインである、っていう設定が終盤に活きてて、少女も少年も根は純粋なんだなって分かるのが切なくて」

 夜野先生は、司ほどではないが、高瀬悠の一読者として作品の感想を語ってくれた。僕が書いたわけでもないのに、その感想を聞いて、人々や街の喧騒を忘れて舞い上がっている自分がいた。

 一通り話した後、夜野先生は気持ちのこもった声で言った。

「やっぱり私、お二人のことが羨ましいです。そんなに仲のいい人が居るっていうのが、私にはとても眩しく見えるんです」

 今度は、僕は夜野先生の言葉を受け止めた。

「ありがとうございます。……いや、さっき否定してしまったのは、なんだか、僕と優の生活が周りからはこんなに楽しそうに見えるんだって思って、びっくりしてしまって」

 一瞬だけ、夜野先生の表情が真剣なものになった。そして夜野先生はゆっくりと優しい笑みを浮かべ、こう言った。

「私が言えることではありませんが、優さんという存在を、大事にしてください。私から見たお二人はまるで、『痛みをおしえて』に出てくる二人みたいに、お互いを必要としあっているような関係に思えるんです」

「……ありがとうございます」

 夜野先生のその言葉は、僕の胸の中にしっかりと溶け込んで、自分の中でしっかりと形に残った。そうだ。優がいること。それは、きっと何にも代えがたいくらい大切なものなんだ。

 

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