第三十七話 不器用な人間

「じゃあ、その『パラフィリア』は光基のものじゃなくて、俺の愛読者のものってことか」

 司の『パラフィリア』を優しく膝に乗せながら、僕は頷いた。優は困ったような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべる。優はちょっと棘の含んだような言葉を吐く癖に、自分の感情をいつも隠しきれていない。

「やっぱり、優のこと、教えないほうが良かった?」

 僕はそう言った。僕にしては大胆な行動をとったから、その反動なのかは分からないが、「優にとっては迷惑だったかな」といった罪悪感が残っていた。

「いや、そういうわけじゃない。作家が身近にいたって事実を知ったときに、真っ先に、自分の本にサインしてもらおうって発想になるのが、いかにも読書好きっていうか」

 優はふふっと笑い、僕の膝の上にある『パラフィリア』を見下ろした。優がどこか儚げな表情をしていることに気づき、僕はふと、優と一緒に居ない日数がどれだけ過ぎていったのかを考えた。

「うん、いいよ。サインする。特別だ」

「ありがと。優くん」

 僕は『パラフィリア』をベッドテーブルの上に置き、優に黒のマッキーペンを渡した。優はペンの蓋を外し、まるでお気に入りの花を撫でるような手つきで文庫本をめくり、本扉にサインを始めた。小気味いいペンの音が病室に鳴り、紙とインクのにおいが書店を連想させ、同時に頭の中に司の顔が浮かぶ。

 司はこれを受け取って、どんな顔をするだろうか。優のことを打ち明けて、飛び跳ねるように驚くくらいだ。きっと、サイン本を受け取ったときの司の気持ちは、僕には到底想像できないくらいのものになるのだろう。

 僕はなんだか、目の前にいる優という人間が本物の作家であると、再び認識させられるような気分だった。司の高瀬悠先生を見るときの顔は、いつでも神様とか、小鳥から見た親鳥とか、暗闇の中で光る標識とか、そんなものと向き合っているみたいに、優という存在を絶対的なものであると捉えている。でも僕は、優のいいところも、悪いところも、格好いいところも、汚いところも、強いところも、脆いところも知っている。他の誰とも変わらない人間の一人として、優を見ている。

 優は、後者の見方をされるよりも、前者の見方をされる方が絶対に多い。どれだけ人間関係を築こうが、その人数が読者の母数を上回ることなんてない。多くの人の目に作品がさらされて、中にはその作者を神格化するような人も現れていく。きっと、世間の注目を浴びて有名になるって、こういう事なのかもしれない、と僕はふと思う。

 だけど、と、僕は同時に別の想いがこみ上げてくる。それではあまりに、この優の脆い体に圧し掛かっているものが多すぎる。その道を自分で選んだとはいえ、それは多分、とても辛いことなのではないか。優は、みんなが思っているより、そして僕の思っているより、弱くて、脆い。

 いつの間に、優はこんな大きな存在になっていたんだろう。

 ベッドサイドテーブルに置かれた容器には、オレンジ色のガーベラが咲いている。愛とか友情とか、そんな言葉で表すのは違うと思って、ただメッセージだけのこもった花を、僕は確かお見舞いに買っていったんだ。花言葉は確か『我慢強さ』。

「はい。書けたよー。久しぶりに書いたな、サインとか」

 場違いとも思えるようなおちゃらけた声がして、僕ははっと意識を戻す。痛みに気づかない体が、何だか遠いものに思えてしまう。この感覚は、多分初めての事じゃない。

「ありがと。あの人も喜ぶよ」

 僕は文庫本を優から受け取る。サインは司が先に見たいだろうと思って、文庫本は開かずにショルダーバッグの中に入れた。

「いやー、なんかさ、俺の作品の愛読者だなんて、相当生きるのが不器用な人間なんじゃないのかな」

 ショルダーバッグのチャックを最後まで閉めると、優は変なことを言い出した。

「何それ」

「不器用な人間のありのままを書いた小説が好きな奴なんて、そいつも不器用な人間に決まってるよ」

「優は、不器用な人間なの?」

 ふと投げかけた質問だった。だけどそこで、優は会話を途切れさせ、少し考えて言った。

「小説やってると、たまに思われるんだよね。人の心情とか丸わかりで、解像度高くて、本当に心読めるんじゃないか、とか。いや、読めるわけねーじゃんとか思うわけ。寧ろ、俺は人の気持ちなんて全く分かんないし、そうやって当たり前のことを卑屈に話してるだけでも、十分不器用なんじゃないかな」

 今度は僕が黙る番だった。

 いつもだったら、「そうかもね」とか「言えてるね」とか、そんな茶化し方をしたかもしれない。だけど今は違った。胸が苦しかった。

「優くんは、辛くないの」

 言ってしまった、と思った。今までなんとなく形にしてこなかった気持ちが、ここで漏れてしまった。

「辛くないって言い張って、希望があるからとか強情張って、強がったり我慢したりするヒーローとかが俺は嫌いだ。だから言うね。…………辛いよ」

 僕ははっと優の目を見る。真っ直ぐで、いつも何かを捉えているような瞳。いつも、優の瞳は、物事の本質を捉えているような、そんな感じがした。だけど、今は違った。やっぱり優も、人間なんだ。

「ごめん、光基……」

 いつの間にか、痛覚のない体が、僕を抱きしめている。力の加減の分からない腕が、僕の背中に回される。ベッドのシーツとか、布団とか、シャツとか、ショルダーバッグとかが擦れあう音を聞きながら、ああ、確かに不器用だと、僕はそう思う。優の重量の一部を乗せたパイプが、きぃと音を立てる。

 優の体は暖かくて、きっとどんなものよりも優しい。

「うっ……」

 優の泣く声は、あまりにもありふれている。

 僕は黙って、優の体を受け止めていた。優の心が許すまで、僕はずっと優を抱きしめ返していた。

「なんでかな……光基の前だと、俺、ちゃんと泣けるんだよ……」

 そうか、そういうことか。優。

 優は、何も我慢なんてしていない。自分が自分でいられる環境で、心と体を保っているだけなんだ。きっと優は、僕の前だけでは、自分が人間であることを許しているんだ。

 


 

 

 

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