第三十六話 サイン本

 バイトをするにあたって、僕が小説家である優とルームシェアをしているということは、すでに店長に打ち明けていた。その点については優も承諾してくれたし、僕がそもそも大学でそのことを打ち明けていないのはただ単純に「別に話すようなことでもないから」という理由のためだった。僕はてっきり店長には訝し気な目を向けられるか、冗談と思われて笑われるかのどちらかと思っていたが、小説家の同居人が書店で働いているというその事実に、面白いこと好きな店長は嬉々として興味を示してくれた。

 僕は初めての働く環境では悪目立ちしたくないという理由で、店長にはその事実をあまりおおっぴろげにしないようにと頼んだ。僕も、あまりバイト先の人たちともそう言った話題は出さなかった。

 しかし、ここで僕の心が揺れ動いた。

 樋口司になら、話してもいいのではないか。

 別に優は自分の存在を広められることに嫌悪感を示してはいない。覆面作家というわけではないし、顔写真なんかもどこかで公開されていた気がする。

 僕の心が少しだけ揺れる。レジの前では、雑貨コーナーで文庫本を持ちながら、女子高生二人がポールペンやブックカバーを選んでいた。ブックカバーの種類をパステルオレンジかモスグリーンかで悩む一人に、こういうのは思い切って決めちゃおう、ともう一人が言い切って、二人揃ってレジの方にやってくる。

 僕はハッと現実に戻り、自分の仕事に戻った。

 とりあえずそのことは、バイトが終わってから話してみよう。


 シフトを終え、書店に併設されているチェーンのコーヒー店で司と話すことにした。窓際の席で、あまり快晴とは思えない雲の隙間からマンゴーみたいな色をした空が覗いていているのを眺めていると、飲み物を頼んできた司がやって来た。

「それで、話って何ですか?」

 司は飲み物を置いて席に座る。司が頼んだメロンソーダの氷が揺れ、純粋な瞳が訊いてくる。

 僕はまるで手を後ろに回してプレゼントを隠し持っているような気持ちで、こう切り出した。

「司さんって、高瀬悠先生の作品が好きなんだよね?」

「はい、そうですけど……」

「もし僕が、その作家さんと二人で暮らしてる、って言ったら、どうする?」

「どうするも何も……よくわからないです。先輩、何を言いたいんですか?」

 本当に訳が分からないという目を向けられ、こういう暴露話はやっぱり苦手だな、となんとなく思う。僕はここで、司への質問を繰り出してみることにした。

「その高瀬悠先生って、どこに住んでるのか、知ってる?」

「ああ、確か、ここの県って……」

「オンラインのインタビューで、どんな生活してるとか、言ってなかったっけ」

「確か、同性の幼馴染と一緒に暮らしてる……いや、え?」

「信じてくれる、かな?」

 随分と投げやりな質問だったな、と自分でも思う。二個めの質問なんか、何の信頼性も増さないだろう。

「いや、だとしても、清水先輩が高瀬悠先生と同棲している証拠にはならないと思いますよ?」

 そう問われ、やっぱりと思って僕は決死の想いで切り出した。

「じゃあ、店長に実際に訊いてみて……。あそこで品出ししてるみたいだから」

 僕がそう言うと、司は後ろを振り向いて書店の中を見た。店長は活発でスタイリッシュそうな体で、大学受験の赤本を棚に入れていた。

「店長には、どういう暮らししてるか言ってあるから、分かると思うよ」

「じゃあ、そう言うことなら、訊いてみます」

 司は席を立ち、書店の奥の方まで行って、本を探している風を装っているのか知らないが、店長に高瀬悠のことを尋ねた。なんだか、バイトに話しやすい人がいて良かったなと思う。

 こちらにやってくる司の足取りはずかずかとしていて、目は見開いていた。僕はその表情が面白くてちょっとだけくすっと笑った。

「ちょっとちょっと。マジじゃないですか!」

「うん。まじだよ。そう、僕ね、高瀬悠先生の幼馴染で、ルームシェアしてるんだ」

 ちょっと虎の威を借りるような自慢話になってしまっている気がするが、僕にしては珍しく胸を張って言ってみた。自分でもこんな大胆なことが出来る人間だったっけと驚いている。

「え、じゃあ、先輩の部屋が先生の書斎になってるんですか? 無痛無汗症の人なんですよね、やっぱり、大変だったりするんですか⁉」

 司は机に手を当てて訊いてきた。予想通りの反応で、自分から言い出したくせにあははと焦ったような声が出る。

「大変だけど、楽しいよ」

 それだけを口に出すと、司は言った。

「あーいいなぁ。高瀬悠先生が執筆してる傍らで、先輩は勉強とかしてるんですよね。羨ましい……あ、そうだ。良いこと思いついた!」

 司は純粋な瞳を輝かせて、手のひらを拳でポンと叩いた。

「なに?」

「あ、あの、先輩が先生と二人暮らしされているなら、お願いがあるんです!」

「う、うん」

「僕の『パラフィリア』に、先生のサインをもらっていただけないでしょうか!」

 司は、思い切ったように言った。その問いかけに僕は一瞬動揺したが、骨折で入院している優に訊いてみてもいいかもしれないと思った。

 

 

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