第三十五話 愛読者
「ホントにごめん……。僕がちゃんと見てなかったから……」
僕はそう言いながら頭を下げる。目線の先には、包帯で巻かれた優の脚があった。
「別に光基が謝ることじゃねえって。それに、どっちかって言うと軽い方の骨折なんだろ?」
ベッドから上体を起こしている優は、申し訳なさそうに、それでも内側の明るさを保ちたいのか、少しだけ口の端を吊り上げるようにして笑った。僕が優に申し訳なく思っているときに、優がよくやる表情だ。
それでも僕は、自分を責めずにはいられなかった。少しでも骨折の発見が遅れていたら、もっと重大な事態になっていたかもしれないと思うと、全身に冷や汗を掻いてしまいそうだった。
「もういいじゃねえか。過去のことに対してもしも、って考えるのはよしとこうぜ? それよりさ、今日、俺に頼みたいことがあって来たんだろ?」
その言葉で、僕ははっと思い出す。僕は元気溌剌に話すあの男の子の顔を思い浮かべながら言った。
「そうだった。えっと、これ」
僕は膝に置いていた手持ちの鞄から一つの文庫本を取り出した。有名な出版社のカバーデザインに、毒々しくも優しさを感じるような色遣いの表紙だ。僕も優も、何回も見てきたデザインだった。僕は優にその文庫本を差し出した。
「これ、俺の『パラフィリア』じゃんか。なんでわざわざ持ってきたんだ?」
「いや、これ、僕のじゃなくて」
そう言うと、優は一瞬戸惑った表情を浮かべた。
「これは……とある事情があって……。話すと長くなるけど、いい?」
優は煮え切らない顔のまま、形だけ頷いた。僕は安心して話した。昨日のバイトでのことだった。
***
大学生の夏休みが始まってから何週間か経ち、僕は午前の英語の資格試験を終わらせ、家で昼食を終えてバイトへと向かった。僕は大学に入学してから書店でバイトをするようになった。ただ単にお金を稼ぎたいから、という理由もあるが、僕はもっと、社会の仕組みについて目を向けてみたかった。
人づきあいが得意というわけでもない僕は、自分が自分のままで生きていける環境と、そうでない環境とを生きてきた。専門性の高い学校となると、ある程度同じ価値観の人達と絡んだり、一つの人間関係だけで満足することがある。その環境は、まさしく自分が自分のままで生きていける環境だ。
そうでない環境は、僕にとっては小学校や高校という場だった。大学と違って、僕と馬が合う人も、合わない人も大勢いたように思う。
きっとそう思えるのは、大人になるにつれて、人間関係などで色々割り切ることも多くなって、結果的に自分の生きやすい場所を選ぶことが多くなったからだろう。そうじゃない環境では、大学以前の僕はうまく生きていくことが出来なかった。きっと社会には、自分が自分でいられる環境と、そうじゃない環境が入り交じっている。だから僕は、社会の中での良いことも嫌なことも自分で割り切ってみたかった。
なんだか変な理由だなと、自分でも思う。
「あ、こんにちは! 清水先輩お疲れ様です。試験どうでしたか?」
駐車場に車を停め、降りると書店の前に立っていた
司とは同じバイト仲間で、主に文芸の小説が好きな高校生の男の子だ。彼とはよく話が合い、読んでいる小説も似通っている。僕は年齢の上下関係のようなものを気にすることがないから、司にとっては、僕は話しやすい人間なのかもしれない。
「こんにちはー。結構試験疲れたよ。本当に長文の英語どれだけ読まされたか……」
僕と司は歩きながら話す。僕はまだ、英語の長文を読んでた時の余韻のようなものから抜け出せずにいる。あれだけ勉強してたのだから仕方ない。
「どれだけ点数取れそうですか? 六百点くらいから履歴書に書けるんでしたっけ?」
「うーん……。八百ぐらい行けてたらいいかなーって感じ」
たわいもないことを話し合い、まだ夏の暑さが残る曇り空の下、書店の中へと入っていった。
僕と司がレジ担当になり、客が少なくなっている間、話題の新刊や互いの好きな小説について話していた。
僕は優や母以外の人と話す時、たくさんのことを隠して接している。きっとそのことは誰にも当てはまることなのだろうが、僕は、司に隠しておいていいのか迷っていることがあった。
「あ、そういえば、高瀬悠先生の『痛みをおしえて』のスピンオフが出ましたよね? 清水先輩は読みました? すっごい面白いですよね! ブラックジョークが効いてて、高瀬悠節満載の達筆で! やっぱり僕、高瀬悠でしか得られない成分があると思うんですよ!」
『高瀬悠』の大ファンである司は、自身の明るい話し方で、キラキラとした声で、僕に作品を語ってくれる。なんだか、不思議な気分だと思う。
ああ、読んでいるとも。世間一般の目に触れるより先に、その話は優から散々聞いているからと、心の中で僕はそう唱える。
なぜなら、『高瀬悠』とは僕の同居人である花瀬優の、小説家でのハンドルネームだからだ。
そう。司は、優の書く小説の愛読者なのだ。
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