第三章 相違

第三十四話 尺度

「まず冷静になって考えてみて下さい」

 しびれを切らした、と表現しても差支えがないくらい、頭の中は憤慨していた。僕だって、プライドや自尊心を当たり前のように持ち合わせている。それを傷つけられたら、自分の所在をどうしても示したくなるのは、おかしな行為でも何でもない。

 目の前の警察は、僕の言葉に一瞬だけ猜疑心の目を向けた。冷静になれ、と口では言っているが、本当に自分が冷静になれているのかどうかは怪しかった。

「もし私が、優に対して私の欲求を一方的に向けていて、殺害したいという欲求があったとします。だとしたら、何故あの場所で優を殺す必要があったのですか?」

「……」

 警察は痛いところを突かれたと言うような目を、少しだけ僕に向けた。しかし、人を疑って疑わない、鋭い真っ直ぐな目に戻ってしまう。誘導してしまっている。僕はそう思った。こんなことを言葉にしたところで、きっと意味はない。すべてはあの男に濡れ衣を着せるための論理誘導だと思われて終わるだけなのではないか。

 ああ、感情に任せてはいけないと、今まで何度も分かってきていたのに。

「私と優はルームシェアをしていたんです。大学病院より、マンションの一室で殺害する方が、圧倒的にリスクが減ります。私を疑うのだとしたら、大学病院での殺害という点で、辻褄が合いません」

 言い切っても、心がすっきりするわけではない。優が戻ってくるわけでもない。むしろ、僕の心は使い古した墨池ぼくちのように黒ずみ、その汚れがこびりついていくような感覚に支配されてしまう。

「その点に関しては、確かに否定しきれません。しかし、花瀬優さんの殺害が起こったのは事実です。そのことに関して、いまはあなたは意見をできる立場にいません。事実だけを、教えてください」

 花瀬は、優の名字だ。

 悔しさで、涙を溢れさせそうになる。僕は目をかっと開き、それをこらえる。

 ああ、こんなにも、僕と社会の尺度が合わないものなのか。

 助けて、優。

 僕はただ、普通に生きたいだけなのに。

 

 また、優と、社会との記憶が、頭の中を駆け巡る。どんなに会話を交わしても、分かり合えなかった記憶達が。その中で、僕はたった一つのかけらを拾う。

 僕が警察に捕まる前まで、一番、大学生になって嫌だった記憶だ。

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