第三十三話 当然の気持ち

「もちろん、親としては孫の顔を見てみたいっていう気持ちはあるわよ?」

 いつか、母が言っていた言葉だ。

「ごめんね。清水家の子孫繁栄に貢献できなくて」

 清水とは僕の苗字だ。一人暮らしをする直前あたりだろうか、リビングで母と結婚の話になったのだ。その時の僕は、母の欲求だけの言葉を軽くいなすために冗談混じりの言葉を返した。気持ちだけをぶつけられることには、不名誉ながら慣れていた。

 母もその空気に適応し、同時に慣れているから、僕の結婚する気はないという意思を受け止めてはいた。

「いいのよ私は。あんたが頑張ってるってだけで嬉しいんだから」

 母は本当に、皮肉風にも感傷的にもなる人だなとうっすらと思った。

「いやほんとはね、光基を苦しませたくないって思いもあるし、今の時代はちゃんと毒親とか親ガチャとか単語が生まれてるじゃない? あんたにそういう思いさせたくないからね、わたしは光基の想いを尊重して……」

 確か僕は、長台詞の始まる前にあーわかったと母を制止したのだ。


 河川敷の上でハンドルを握りながら、今更にそんな母との記憶を蘇らせていた。

 梓のあの泣き顔、必要以上に自分を責め立てるような悲痛な声が、頭の中で呪いのように付きまとい、まるで巨大な何かから責め立てられるように、山脈からのぞかせる星空が僕の目にちらつく。僕は自分を保とうと、きちんとハンドルを握り、革製の感触をきちんと確かめる。

 もしあの時、自分が梓を愛せるような人間だったら、と子供っぽい考えが頭を過る。結婚して、子供を産んで、家庭を築いて……。そんな「幸せ」という単語を聞いて自分に辟易するほど簡単に思い浮かぶ光景を。

 そして、その時僕は気付いた。

 僕は、子供を産みたいとか、家庭を築きたいとか、そういったことを全く考えていない。

 欲求がない、という意味ではない。きっと僕は、そういった幸せを知らないし、知りたいとも思わない。想像したとしても、子供の頃に親の忙しさを理解しようとするような、無意味な作業に終わるだろう。

 きっと僕は、優のために生きている自分が、そして優の前で正直でいられる自分が好きだから、その幸せのために今頑張っているのだ。

 

 ドアノブに鍵を差し込み、重めの金属音が暗い廊下にずっしりと響く。ドアを開いて中を見渡す。玄関は暗く、リビングのレースカーテンから届く薄い光が廊下を包み込んでいた。優は暗くなる前からまったく部屋を出ていないのだな、となんとなく思う。

 早く優といるときの自分に戻りたくて、玄関のドアに鍵を掛け早足で廊下を進む。ドアを開けると眩しい光に瞳孔の形がきゅっと閉まった。

 そこにはパソコンのキーボードに両手を添えながら画面を凝視している優がいた。いつもの光景に、僕の高鳴った心臓は治まってゆく。

 ピタッと優の手が止まり、優はいつものきょとんとした表情でこちらを見る。

「ただいま」

「……おかえり。大丈夫?」

 優はチェアーを回して僕の方を向く。その存在感に脱力しきって、僕の視界がぼやける。

 気づけば、僕は優に抱き着いている。

 優の来ているシャツや、僕のショルダーバッグが不器用にこすれ合う。

「お、おい……」

 優は困惑した声を上げる。

「ごめん、今日はちょっと疲れた……」

 僕の力なく笑う声で様々なことを察したのか、力加減の分からない優は僕を抱きしめ返した。

「そっか……」

 体は冷たいのに、優はほんとに温かい。


 それから、梓から連絡が来ることはなかった。

 


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