第三十一話 不変

 朝に目を覚ます。五時でも薄明かりが部屋にしみ込んでいることに、夏の訪れを感じる。

 少しの眠気の中で、僕はまるで糸で手繰られているかのようにのろのろと勉強机の椅子に座る。そうするだけでも、勉強のやる気を出すことが出来る。蛍光灯のボタンを押し、単語帳を手に取り、栞代わりに挟んでいた赤シートを使って記憶を定着させる。寝る前に記憶した単語を、朝起きてアウトプットする。こうすることで、効率よく単語を覚えることが出来る。

 これが、資格の勉強のために最近やり始めたルーティーンだ。早朝に起きて、優が寝ている最中に単語をぶつぶつ呟きながら覚える作業は、何だか小さな特別感を与えてくれる。

 一通り覚えると、僕は家事を始める。昨日残しておいたサラダを出したり、優の昼ごはんのためにお米を炊いたり、朝のニュースが流れる中、フライパンに卵を落としたりしながら、今日はチャーハンでも作ってやるか、なんて思う。

 大学生になってから、スケジュール管理の大切さを改めて感じるようになった。成長するにつれて、色んな事柄に責任がついてくるようになった。そのせいで生まれた多忙や困難には、自分が習慣の中で身に着けた癖のようなもので乗り越えるしかない。

 朝食が出来たらテレビを消して、僕は優を起こす。

 優は寝起きが悪く、起こした後は創作論みたいなものをぶつぶつ呟いている。その話に適当に乗ってあげながら、朝食を過ごすのが僕達の日常だ。

 その後は大学に行く準備をする。椅子に座りながら一通りテキストやノートをバッグに入れていると、梓からの連絡が来た。

「梓さん?」

「ん、こんな時間に?」

 優もそう声を上げる。勉強机に置いたままになっているスマホを持ち、ラインを開くとこう書いてあった。

『今日、話したいことがあります。大事なことです。時間があれば、聞いてくれますか』

 昨日までにあった軽さは、微塵も感じられなかった。その一文に、僕の心臓はこくりと動いた。どくりと、じゃなくて、こくり。綺麗な水たまりに石を落として波紋が広がるように、僕の脈打つ心臓の衝撃は体中に伝わった。何を話したいのか、勿論この文だけでは察することはできない。だけどきっと、梓は必死の思いで送信ボタンを押したのだろう。

「大事なこと……」

「つきあってやれ」

 優の真剣な言葉に背中を押され、僕は返信する。

『いいよ。でも、どこで話す?』

 既読がついて、返信が来る。

『歩きながらでいいかな。お店の中とかだと、できない話だから。夕方、大学前で待ち合わせでいい?』

 僕は了解と送り、大学の授業が終わる時間帯を梓に伝えた。

「ごめん、今日も帰り、遅くなるかも」

 僕は優に言った。

「分かった」

 

 ***


 大学から出ると、梓が入り口前で待っていた。幸い、和也はサークル活動のため一緒ではなかった。和也といたら、なんとなくだけれど、面倒臭いことになりそうな気がする。

「梓さん、お待たせ」

 門の前で俯きながら硬直しているような梓に、僕は声をかける。服装は、初めて会ったときと同じ、白いブラウスと薄桃色のフレアスカートだった。

「あ、光基君。ううん、全然待ってないよ」

 そう言って、梓はぎこちなく笑った。明らかに緊張しているのが、表情から伝わってくる。

「ちょっとさ、花火会場、上から見てみない? 橋の上なら人もあんまりいないかも」

 梓は河川敷の方へと歩き出す。不意に目に映った交通規制の看板に、花火大会の日付が書いてある。今日は、花火大会の前日だった。大会はすぐ隣に流れている川で開催されている。規模も大きく有名な方だと思う。今はいろいろな人たちが河川敷で屋台の準備をしているところだろう。大学を出てからすぐの大きな橋から、今ならその光景を見渡すことが出来る。大会当日になると交通規制がされて、その橋は通ることが出来なくなる。

 僕達は橋を渡りながら、川や屋台を見下ろしていた。

 川は優しい流れで薄桃色と茜色の混じったような夕焼けの空を映し出し、河川敷では安っぽい折り紙みたいにカラフルな屋台が立ち並んでいる。都心部の圧迫感は嘘みたいに消え去り、どことなく、広い、と感じる。

「確か、向かいの方から花火が上がるんだよね」

 橋の真ん中あたりに差し掛かったところで、隣で歩いている梓が指を刺しながら言った。ここまで来てまだ、梓は平然を装おうとしている。

「うん、そうだね」

 僕はそう返す。梓は少し時間を置いて、こんなことを言った。

「光基君は、一緒に見に行く人とか、いる?」

「いないよ。いるとしても、見に行けないかな」

 すると、梓は少しだけ楽しそうに返す。

「私も一緒。見に行く人がいるとしても、バイトが忙しいし」

 どうして、梓はこんなことをわざわざ訊いてくるのだろう。梓は一体、これから何を話すつもりなのだろう。何か、悩みでも打ち明けるのだろうか。だとしたら、なぜ僕に? 梓にとって僕が、何かを打ち明けられる存在であるなら、僕はそれを肯定すればいいのだろうか。否定すればいいのだろうか。でももし、本当にそうなのだとしたら、その役割は友樹が担っているはずなのではないか。自身のトラウマを、僕に対して打ち明けることなんて、あり得るのだろうか。

 一人熟考に浸っていると、僕の隣で並行して鳴っていた足音が、消えていることに気が付いた。咄嗟に、僕は後ろを振り返る。

 梓は足を止めて、その場で俯いていた。

「ね、ねえ、大事な話、していい、かな……」

 無理に笑みを作ろうとするような表情で、梓は顔を上げる。梓の後ろでは、大きな大学病院が夕日を跳ね返している。僕はゆっくりと頷いた。

「このことを打ち明けたら、光基君は多分、私のことを嘘つきだって思うかもしれない……」

 その切り出し方から、ああ、何だか懐かしいと思ってしまう。

 どうして懐かしいのだろう。そうだ。中学生の時、梓は学校を休んだ僕に対してどうにか迷いながら話をしていた。その時の表情と、今の梓は似ている。変わっていない。きっと梓は、あの時から、変わっていない。いや、変われて、いない。

「でも、嘘を付いていたわけじゃないの。私の変化に、私がついていかなかっただけ」

 ああ、分かってしまった。

 そうか、そういうことなのか、梓。

 僕は、馬鹿だ。

 僕も、いつかの梓のような目線を、彼女に向けていた。向けてしまっていた。

 彼女は深呼吸する。破滅が訪れると分かっていながら。自身を崩す行為だと分かっていながら。

 彼女の目元が、眩しい夕日のせいでうまく見えない。

 彼女は、口を開く。ああ、聞いてしまう。形になってしまう。

 ――忘れるな。光基は、っていう概念と接しているんじゃない。っていう人間と接しているんだ。


「私は、光基君のことが、好き」

 


 

 

 

 

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