第二十八話 幸せな人間
土曜日の朝。朝食や英語の資格試験の勉強をして、身だしなみを整えていると、ベッドの上で胡坐をかきながら文庫本を読んでいる優が訊いてきた。
「ん、今日どっか行くの?」
「うん、梓さんと、あと友樹くんとカラオケにね」
僕は水色のストライプ柄のシャツのボタンを留めながら言う。黒色のズボンに合い、カジュアルな感じになっているだろうかと、等身大の鏡を覗く。
「さん、って、元クラスメイトにつけるかな」
優は文庫本から顔を上げて言った。僕はそんな優を振り返って、すこしだけ考える。
「確かに。あんまり呼び捨ての人とかいないかも」
「俺にも大体くん付けだよな。なんか光基って、そういうの丁寧だな」
「丁寧って何。丁寧にできてたら、誰も苦労しないんじゃない?」
「そうかもな」
優は鼻で笑うように吐き捨て、文庫本に顔を落とす。
和也なら呼び捨てなのだが、それ以外の人に対しては大体さん付けかもしれない。呼び捨てで定着してしまったら、どこか自分の中身を見透かされそうな感じがするのではないかと、躊躇してしまうのだろうか。
僕は一番上のボタンまで留め終え、財布やスマホの入ったショルダーバッグを身に着け、自室のドアノブを捻った。
「じゃあ、体温調節と、怪我しないように気を付けてね。行ってきまーす」
「いってらっしゃーい」
そう言って出て行こうとしたが、あることを思い出し、振り返って優に伝えた。
「あ、優くん、昼食、久しぶりに外食にしない?」
「ええ……。まあ、いいけど」
優は明らかに嫌そうな顔をする。外出すること自体が優はめんどくさいのだ。ふふっと笑って、僕は自室を出た。
***
普通電車に乗って三駅ほどで降り、改札を抜けると、右手の壁に寄りかかってスマホを弄っている梓がいた。空は雲一つない晴天で、僕も梓もじんわりと汗をかいていた。
梓は僕に気づいて、スマホを手提げのバッグに入れた。
「あ、光基君! おはよー」
薄いベージュ色のワンピースを着た梓が軽く手を振る。思い切った感じでも、遠慮した感じでもない動作だった。
「おはよう。友樹くんは?」
「ふふっ」
問いかけると、梓は口に手を当て、少しおかしそうに笑った。
「よっ、みーつき!」
僕がぽかんとしていると、急に後ろから腕を回される感触がした。
「うおっ⁉」
僕が左側を向くと、そこにはかつてのクラスメイトの、友樹の顔があった。どうやら友樹と同じ車両に乗っていたようだ。整った顔つきが少し無邪気な笑みを浮かべ、それでも爽やかな印象を崩さない。そうだ。友樹は、こういう顔で、こういう声の人だったなと、ふと懐かしい気持ちが蘇ってきた。
友樹とは中学三年生の頃のクラスメイトで、僕と学年の成績を競い合うような仲だった。お互いに試験の話をしたり、受験問題を昼休みに共有し合ったりしていた。友樹は梓と仲が良く、友樹は梓に勉強を教えたり、雑談し合うほどの仲だった。梓が同性愛者だという事が知れ渡っていた頃は、彼と彼女の関係を邪推するような人はいなかった。
「久しぶりー! 元気してた?」
「うん。大学はどう?」
「……好調だよ。それよりさ、今日は一緒にカラオケではしゃごうぜ」
友樹は腕を放し、梓のもとへ歩いた。
「じゃ、いこっか」
梓はそう言った。
「うん」
僕達はカラオケに向かいながら、また色々と懐かしい話をした。部活や勉強や行事や、受験のこと。ここでも意見文の話題は上がらなかった。友樹も、そういった配慮をしているのだろうか。
カラオケルームの中では、僕はあまり歌わず、梓や友樹がそれぞれに歌いたい曲を歌っていた。梓の歌う番になり、雰囲気作りをしたいからとつまみをねじって部屋を少しだけ暗くした。原曲の音ではないと分かるようなイントロで、僕の知らないレトロでコミカルな曲が流れ出す。何その曲、と笑いながら友樹はマラカスを振り、友樹も知らないみたいだと安心して、僕は手拍子で盛り上げてみた。
梓が歌い終えると、画面に年代が表示された。
「古っ⁉ 何年前の曲だよ」
「最近また再ブレイクしてる曲だよ? 知らないの?」
友樹が突っ込み、それに対して梓が煽る。あまりの二人の仲の良さに、一緒に来てしまっても良かったのだろうかと少し気まずくなる。
「あ、ちょっとドリンクおかわりしに行っていい?」
「うん」
白のマグカップを持った僕は梓に断りを入れ、革製のソファーの上で体をずらして立ち、部屋の外へ出た。ドアの閉まっている部屋からの音を聞きながら受付へと出る。中学生時代に流行っていた曲が聞こえ、どことなくジャンキーな匂いが鼻を掠める。
スロットが何台か設置されているこぢんまりとした空間で、僕はドリンクバーにマグカップをセットし、コーンポタージュのボタンを押す。純粋に黄色い液体がカップに注がれる。もし優がこれを飲んだら、気づかずに火傷してしまうだろうなとふと思って、僕はとあることに気づく。
今の僕は、周りから見たら普通の人間と変わらないのだと。
もし僕が受付に立っている店員だとしたなら、そこから見える僕は、普通に今を楽しんでいる大学生に見えるのだろう。血に興奮するなんて、ましてや痛覚のない人間と共に暮らしているなんて、想像できないだろう。
きっと僕は、こんな風に振舞っていたら、ただの一般人なんだ。服を着こなして、それなりに友達がいて、勉強もできて。そういうところだけ切り抜けば、僕は幸せな人間なんだ。
別に、一般人のふりをして生きている、なんて意識はない。自分の中で、ただ対等に誰かと接しているだけなのかもしれない。
定義さえあやふやな「普通」をなんとなく気にしてしまっている自分に少しだけ辟易しながら、僕はお湯で薄められたコーンポタージュの入ったマグカップをこぼさないように運んだ。
まあ、いいやと心の中で考えるのを諦める。今は、今だけは、この時間を楽しめばいい。
僕は部屋番号を間違えそうになりながらも、正しい部屋のドアを開けた。その瞬間に友樹が見た目に似合わない甲高い声で流行りの曲のサビを歌い始めたから、僕はくすっと笑ってしまった。
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