第二十二話 幼馴染
日が沈みつつある丘の上の団地には、夏の暑さの余韻が残っていた。
月が昇り、一番星が見え、景色が夜へと変わってゆく。
長袖のパジャマを脱ぎ、半袖姿で僕は靴を履いて外に出る。止血した跡が露になるが、僕は構わず道路へ出た。そのまままっすぐ走り、突き当りを曲がって坂を上がればすぐに優の家だ。
「はあっ……。はあっ……」
僕は息を切らしながら角を上がる。柱の錆びたバッグミラーに、ひょろひょろとした自分の姿が映し出される。
なんて僕は、格好悪いんだろう。
誰の話も聞かないで、一人で閉じこもってうだうだ考えて。
優やお母さん、自分まで傷つけて。
外へ出たのなんて久しぶりで、体力を簡単に切らしてしまう。坂を上がり、左側に薄桃色の壁と青緑の屋根の一軒家が見えてくる。その時、僕はとある影を見た気がして、後ろを振り返った。
僕の視線の先にあったのは、優の家の庭だった。庭と言っても、僕の家のように手入れされてはおらず、まるで空地のように草が荒れていた。その先には、丘の下の、水が張られた田んぼや光の灯る住宅街が広がっていた。
そして庭の真ん中に、優が一人ぽつんと座っていたのだ。
「優くん!」
暖かい風が吹く。
体育座りの優は僕の方を向く。僕はコンクリートの溝を超え、砂利を蹴り、優の隣にしゃがむ。
優は空を見上げ、無理やり口角を上げて言う。
「あんまり、家にいたくなくてさ」
「ごめん。優くん。あの、えっと、さっきは迷惑とか言って、ごめんなさい!」
はっきり、謝らないと。
「光基」
「僕ずっと自分に嘘ばっかついて、自分がこんな人間だからって、何もかも突き放して、誰の気持ちも考えないで……」
僕は正座になって、俯きながら言う。優に言わなきゃいけないと思っていることを。脚が砂利や小石にごりごりと当たり、それだけでも痛いと思う。優は、その痛みが分からないのか、座り方にぎごちなさがない。
「おい、光基」
だけど、まだ、怖い。
「だから僕はちゃんと、これから……」
「だから俺の話聞けって!」
優は手のひらを地面に打ち付けて、叫んだ。
僕は優の顔を見上げた。
「優くん……」
優は張り詰めた顔で、ぐしゃぐしゃに涙を流していた。
「光基。俺は謝罪とか、そういうのは求めてない! 今まで通り、友達でいたいだけなんだよ!」
「え……」
今まで抱えていた義務感のようなものが、優の言葉で一気に崩れ去った。
こんな人間でも、友達で、いてくれるの?
あんなことを言ったのに。
僕は、許されるべきでないことを沢山しでかしてしまったのに。
頭の中では、優の『信じてるから』という言葉が、今になって蘇っていた。
「今まで通りゲームして、俺の小説読んでもらったりとか、お前に勉強教えてもらったりとか、俺はそういうのに戻りたいだけなんだよ!」
優が強く、早い口調で言う。そうすると、優は口の中を切ってしまったのか、微小な血を唾のように吐く。
「優くん……」
「言っとくけどな!」
優が体制を変える。僕と同じように正座して、僕に向き合う。ぴしっと僕を指さした優の手は、赤く汚れている。
「別に俺は、お前が俺の血にどういう感情を持ってようが知ったこっちゃねえ! 俺は、お前は俺のことを傷つけないってわかってる! だから別に、難しいことでもなんでもねえんだよ!」
優が思っていること。それは、自分では想像できない。分かりっこないと思っていた。人の心なんて、簡単に分からない。だけど、僕はここではっきり分かった。難しいことでも、何でもなかった。優は、ただ。
「俺は、お前がいねえと寂しいんだよ」
ただ、本当に寂しかっただけなんだ。
僕は、分かっていたんだ。優の気持ちを。
ずっと前から、僕達は友達だったじゃないか。
僕の方だって、優がいなくて寂しかったんじゃないか。
優の汚れた口元が緩む。にこやかに口を開く。
「光基。自分に変化が起こってさ、それが恐ろしくなるってこと、きっと誰にだって起こりうることなんだよ」
「それって、どういう」
「ほら、前に光基が言ってたやつさ。悠斗とかの言ってることについてけないって」
「確かに、言ったけど……」
「他の男子たちもさ、自分のそういう感情を自覚していって、怖かったんだと思うぜ? この感情が普通のものなのか確かめたい、って思って、その感情を光基とかにぶつけてきたんだよ、きっと」
「でも僕は、共感できなかった……」
「いいんだよ。共感できなくたって。それでも別に、俺達はクラスメイトで居続けられるだろ? 前に学校来たとき悠斗が言ってたんだよ。もしかして光基は俺のせいで不登校になったんじゃないかって。だったら謝りたいって。みんな、根は優しいんだよ」
「え?」
そう言うと、優はぷはっ、と吹き出した。
「な、面白いだろ? 前まで、にやにやしながら猥談仕掛けてきてたのに、急に真剣になってさ。ほんっと、俺達ってめんどくさいよな~」
優は、どこか楽観的で、それでも真っ直ぐで、強くて、繊細で。僕はどこまでも真面目で、真っ直ぐで、弱くて、考えてばっかで。
僕も、優みたいにふふっと笑った。
誰も、簡単に人の事なんて分からない。
だけど、それはきっと、怖いことってだけの事ではない。
単に今、こうやって笑いあえているじゃないか。
「なあ、光基がまた学校来れるようになったらさ、二人でまたゲームしようぜ?」
僕は優の顔を見て、言った。
「うん」
すると、優は力が抜けたように地面に手を付き、はーっと息を付いた。
もしかして、体温調節をきちんとしていなかったのかとヒヤッとすると、優が安心したかのように言った。
「あーっ。良かった。マジで安心した」
「え?」
僕は笑いながら答える。
「光基が学校に来なくなって、俺も色々考えてたんだぜ? 俺のことが嫌いになったのかなとか、こんな病気のやつ、面倒くさいとか思ってたのかなって」
「全然、そんなことないよ!」
僕は慌てて否定すると同時に、そうだったのかと思う。
優だって、人の気持ちが分からなくて、怖かったのだ。
「あ、優に光基君!」
すると、隣から優のお母さんの声がした。きっと僕たちの会話が聞こえていたのだろう。
「げっ……」
そう優が言うと同時に、優のお母さんが駆けてくる。
「なかなか帰ってこないと思ったら、こんなとこにいたのね」
優のお母さんは僕達に微笑みかける。そして目元の小さなクマが目立たないくらいの優しい笑みから、一瞬で身内のテンションに切り替わる。
「って、優! あんたその怪我どうしちゃったのよ!」
「い、いや、これは……」
優は後頭部をポリポリ掻きながら恥ずかしそうに僕の方に目配せをする。そんな優が面白くて、僕は笑う。優といると、やっぱり楽しいなと、心の底からそう思う。
「い、色々あったんですよ。そう、色々……」
「あ、ああそうだな、色々あったんだよ」
僕達がそう弁明すると、優の母はふふっと笑って、僕達を見た。
「あなた達、本当に仲がいいのね。羨ましくなっちゃう。さ、もう夜になるし、光基君も家に帰りなさい。また、学校で会いましょうね」
そして僕は、優の母の言葉に、笑ってこう返すのだった。
「はい!」
***
「光基、途中できつくなったら、早退してもいいのよ」
「分かった。でも、大丈夫」
まだ、久保田先生の事とか、周りの心配の目とか、怖いことはまだまだある。でも、大丈夫。
僕には優がいるから。
「じゃあ、行ってきます」
僕は振り返りながら、母にそう言った。
「いってらっしゃい」
その言葉を背中で受け止め、僕は玄関を出た。
外は、朝の光で満ちていた。
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