第二十一話 誰も普通じゃない
玄関のドアのベルが鳴るのが聞こえ、優が出て行ったのだと分かると同時に、自動車のバッグする音が聞こえた。お母さんが帰って来たのだ。自動車ドアの開閉の音、そしてピッ、という鍵を掛ける機械音が聞こえ、ハイヒールの足音がコツコツ響き、そして止まる。
音の長さからして、まだ玄関には立っていない。つまり今、どこかで足を止めているということだ。
話し声が聞こえる。それははっきりとした音として聞こえず、とりとめもない波として聞こえてくる。
優とお母さんが話しているのだ。
ハイヒールの音のテンポが上がる。すぐに玄関のベルが鳴り、靴を脱ぐ音が聞こえ、足音がとんとんと、階段を通って僕の方へ近づいてくる。
「え……」
自室の扉が、ばんと開かれる。会社や人に、揉まれに揉まれた社会人の格好をした母を目に捉えた瞬間、僕は圧迫感に包まれた。
「光基……」
黒タイツにスーツ。そんなお母さんが、ベッドの上で僕を等身大で抱きしめている。すぐに束縛は解かれ、泣きはらした顔のお母さんは、左腕に目を移す。
「光基、その腕は」
キリっとした凄みの含んだ声で、母は聞く。
「え、えっと」
「見せなさい!」
「あ、いや!」
抵抗虚しく、僕の左袖は捲られる。僕の止血した跡の包帯が露になる。母のしっかりした手に、僕は掴まれている。
お母さんの瞳孔が一気に開く。
「光基っ‼」
パチン。視界も思考も何もかも止まって、すぐに痛覚がしびれとしてやってきた。引っぱたかれたのだ。
「お母さん……」
僕はお母さんの方を向く。
「光基……。もう、いいのよ……。誰も普通じゃないの。誰も、普通じゃないところがあって当たり前なのよ……。誰を恨む必要もないの。自分を嫌になる必要だってないの。だから、自分を傷つけることだけは、お願いだからやめて……」
母が涙を流す。メイクやつけまつげが剥がれかけ、セットされた髪はぐしゃぐしゃになる。
「優君から、光基は自分の性について悩んでいるって聞いたの。普通じゃない自分が嫌になってるみたいだって。自分の性で誰かを傷つけるかもしれないって。俺には光基を元気づける資格がないって」
「え……」
優は、僕のことを嫌いになってなんかいなかった。優は、僕が話した内容の表面だけを伝えてでも、僕を元気づけたかったのだ。
「光基、朝にあんなこと言ってごめん。光基が朝に、自分の最低なところを私に見せてこなかっただけって、言ったわよね?」
「……」
僕は黙って頷く。
「それでいいのよ」
「え……」
お母さんの言葉には、確かな説得力があった。
昂った頭が、穏やかになっていく。
「誰だって、みんなに共感されないことを隠したりして生きてるのよ。私だってそう。誰だって、別の自分で、その時の自分で誰かと接しているの。だけどそれは、嘘の自分なんかじゃないのよ。一人でいる自分も、自分の性質を隠して誰かと接している自分も、本当の自分なの」
「お母さん……」
お母さんは、優しい声色で続ける。
「私は、あなたは誰かを簡単に傷つけるような人じゃないって思ってる。もう一度言うけど、一番大事なのはあなたの気持ちなの」
「……いいの? 見せたくない自分を隠したって」
お母さんは言う。
「自分の性の深いところは、誰にだって知られたくないし、誰だって知りたくもないのよ。共感できないことがあっても、共感できないってちゃんとあなたが思うことが大事」
「でも、誰かに馬鹿にされるかも」
それでも、やっぱり怖い。
「それは馬鹿にした人が悪い。その時こそ、一緒に解決策を考えましょ? 今のあなたはそれぐらい、真っ直ぐでいいの」
お母さんは僕に微笑みかける。
お母さんには敵わないと、僕は強く感じさせられる。
そうだ。
自分の性欲で誰かを傷つけるかもしれないって、僕はずっと怖かった。
自分の一面を隠して、生きてもいいんだ。
普通じゃない一面を持ってたっていいんだ。
僕の性質を隠して誰かと接してる自分も、本当の自分なんだ。
だったら、僕は等身大になれる。
矛盾したこの気持ちも、僕は受け入れられる。
僕は今まで、自分の心を見ようとしてこなかったじゃないか。
自分がどうしたいのか、考えてこなかったじゃないか。
優の言葉を、そして母の言葉をちゃんと聞こうとしなかったじゃないか。
「僕は、優と、ちゃんと話したい。僕は、誰かを傷つけたいなんて思ってない……」
自分に言い聞かせるみたいに、僕は言う。
「お母さん、ありがとう……。僕、行かなきゃ」
まだきちんと考えはまとまらない。
いや、まとまらなくたっていいのかもしれない。
でも、お母さんのおかげで、少しだけ怖くはなくなった。
僕は優にもう一回会って、話がしたい。
僕はベッドを降りて、走って部屋を出た。
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