第二十話 優の一番嫌なこと

 バケツに入った水を庭の水受けに流し、僕のやった行為のほとんどの跡を消した。まるで犯行の証拠を消そうとしている犯人のようだと思った。

 ベットの上で枕に頭を預けていると、インターホンが鳴った。昨日と同じく、僕はリビングでカメラを覗き、玄関に立っている人物を目にした。

「え……」

 ずっと、こうなるのを恐れていた。

 プリントを届けに来たのは、梓ではなく、優だった。

 制服姿で口を閉じ、プリントを片手にもつその姿は、緊張しているようにも、冷静になっているようにも見えた。鋭く見える目も、ぎざぎざの短髪も変わらない。なのに僕は、冬用の長袖のパジャマをクローゼットから引っ張り出して、止血した後を隠している。

 こんな姿で、優と顔を合わせられるわけがない。さっとプリントをもらって、帰って欲しい。

 僕は恐る恐るリビングを出て、靴を履いて玄関のドアを開けた。

「……優」

「えっと、まずこれ。プリント」

 そこに優が実在しているのだという実感が頭に入ってくる前に、即座に優は封筒を突き付けた。僕は感覚が正常な左腕で封筒を受け取り、優の目を見た。

 瞳が、揺れていた。

「えっと……」

 優が言いかけ、口を噤む。

 沈黙が続く。外の夏の空気が、優を通してするりと僕の肌を撫でる。

 優の視線は泳ぎ、僕の左腕の方へと移る。

 心臓が高鳴る。

「なあ、何だよ。その左腕」

「帰って」

 瞬時に、僕は返す。嫌だ。こんなことは言いたくないのに。

「は? そもそもなんで長袖なんて」

「帰ってよ!」

 僕はそう叫んで、無理やり玄関のドアを閉めた。相手は痛覚のない人間だというのに、そんな乱暴なことをしてしまう自分がさらに嫌いになった。


 ***


 太陽が沈みかけるころ、外の空気は徐々に静かに澄んでゆき、僕の精神も安定してきた。チャイムが鳴って、母が帰って来たのかと思い、しかし車の音が聞こえなかったから宅配便か何かだと思って、僕は玄関のドアを開けた。

「はい」

 そこには、優がいた。

 放課後の時間帯の時と同じ風貌で、優は僕をきりっと睨みつけていた。

「優くん……」

 僕は瞬時に俯く。

「なんで、帰ってって言ったのに」

「光基とちゃんと話がしたいから」

「やめて」

「なんでだよ。友達の心配して何がわりぃんだよ」

「違うの」

「違うって何がだよ。説明されなきゃ分かんないだろ。俺は光基と話がしたい。なんで長袖なんか着てるんだよ。その腕の腫れたところは何?」

「……上がって」

 もうこれ以上、優と話したくなかった。だからもう、嫌われようと思った。


 優を自室に通すのは、初めてではなかった。

 優が躓かないように階段の電気を付ける。暖色の明かりが空間に満ちる。玄関を上がる足音だけが、この家に響く。

 階段を上がって左に折れ、暗く短い廊下の先にあるドアを開ける。なんとなく、僕と母だけじゃ広すぎる家だなと思う。

 優を自室に通し、僕は部屋を見渡し、僕がやった行為の跡がすべて消えているか確認した。入り口から右手にベッド。その壁の反対側には勉強机。その隣の小窓から見える夕焼けの余韻が、林や住宅街、山脈のシルエットを作っている。

 部屋の奥にはベランダへ続く引き戸があり、微かにブナの木の頂点が柵越しに見えた。僕は優とは顔を合わせず、外の景色を見ながら言った。

「ねえ、優くんはさ、何に興奮する? 女性の体?」

「え?」

 カーテンのかかっていないガラスの引き戸が、優の困惑した顔を映し出す。

「僕さ、ほら、前に自分の性に違和感があるって言ったよね」

「あ、ああ、確かにそんな話したな」

「やっとわかったんだよ。自分が何を性的対象にしてるか」

「それは、俺が聞いてもいいやつなのか」

 僕はその問いには答えず、言う。

「僕さ、血が好きなんだよね。とあるアニメ見て、主人公が敵に腕を切られてるところを見てさ、これだ、って思ったんだよ」

 震える。最近あった猟奇的な殺人事件のことは、優だって知っているだろう。

 このことを、優が知ったら、どう思うのだろう。

 怖い。でももう、こうやって嫌われるしかない。

「は?」

 僕はあっけらかんとした優の答えに振り向いてしまう。

「だからって、なんでわかんないの⁉」

「分かるわけねえだろ。俺が分かってるのは、お前がそんなやつでも人を傷つけないって信じられるくらい、光基は優しい人間だってことだけだよ」

「それは僕が優に見せた、僕の一つの一面に過ぎないでしょ?」

「そうかもしれないけどさ。……はぁ、そうか。あれだろ? 俺が無痛無汗症って言う病気だから、無自覚に血を流す人間だから、怖いんだろ」

「そうだよっ‼」

 僕は吐き捨てる。こいつは、なんでも分かっている。見透かしている。

「人が無自覚に血ぃ流してるとこ見て興奮するとか、人間として終わってるだろ!」

「知らねえよ!」

「自分の欲のために僕がもし優を傷つけることがあったらどうすんだよ! だから僕は腕を切ったんだよ! 分かったらさっさと出て行ってよ!」

 優の一番嫌なこと。それは。

なんだよ、お前みたいなやつ!」

 誰かの、迷惑になること。

「分かったら放っておいてよ! 僕みたいな異常な奴、クラスの中に溶け込んで言い訳がないだろ! 僕はいちゃいけない人間なんだよ。お願いだから、もう放っておいてよ……」

 ああ、言ってしまった。もう、取り返しがつかない。でもこれで、良かったんだ。

 僕は目を開け、優の顔を見る。

「……うっ……」

「……っ」

 優が、泣いていた。母が倒れたと知った時よりも、大粒の涙を流していた。涙が、汚れをふき取った床に落ちて、確かな音を立てる。

 優は出口の方へと向き、部屋から出ようとする。しかし、ドアの前で一瞬留まり、言い放った。

「俺は、信じてるから」

 信じてる。一体僕の何を信じるんだと思ってしまった僕は、本当に愚かなのだろう。

 


 

 

 

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