第十九話 拒絶(性描写、暴力描写、残酷描写あり)
「光基」
僕はベッドから降り、白い木製のドアの前に立つ。ドアを隔てた先に、お母さんがいるのだ。
「起きた」
僕は、それだけを言った。
「入ってもいい?」
「ダメ」
お母さんとは話したくなかった。昨日お母さんにあんなことを言って、お母さんを拒絶している自分が嫌いになっていく。
「わかった。朝食、前に置いておくわ。あと、保護者に見せなきゃいけないプリントあるんでしょ? お昼でもいいから、リビングの机に置いておいたら嬉しいわ」
「うん……」
ことん、と、トレイが床に置かれる音がする。完全に、引きこもりの人間の構図になっていることに、僕は絶望する。
少し間を開けて、お母さんは言う。
「光基。私はあなたの母親なの。あなたが嫌でも、あなたの心配をするのが私の役目。確かに、考えなきゃいけないこと、大人にしか見えないことはあなたの周りにたくさんあるわ。それでも、一番大切なのは、あなたの気持ちなの」
だから、違うんだって。お母さん。僕はもう、そもそも人間として生きる価値のない人間なんだよ。そうやって大切にされていい存在じゃないんだよ。僕は、世の中の危険因子なんだよ。
「ねえ、お母さん……」
「なに」
「どうして、優しくするの」
「親だからよ」
やめて。親という言葉を、どんな倫理も超越した言葉のように使わないで。
「でも僕は、そんな人間として扱ってもらえるような奴じゃないよ」
「そんな。光基はそんな人じゃない」
「それは、お母さんには見せてこなかっただけだよ。最低なんだよ僕は。本当に」
「じゃあ何よ。朝ごはんはいらないって言うの?」
「なんでそうなるの⁉」
僕は語気を強くする。そんな権利、ないっていうのに。お母さんの方が、どう考えても正しいことを言っているというのに。
「いい加減にしなさいよ光基‼」
すると、お母さんは怒鳴った。
「さっきから優しくしないでとか、最低の人間だとか、今までそんなこと吐いてこなかったじゃない! 本当のあなたは一体どこに行ったのよ‼」
「本当のあなたって……。全部、これも本当の自分だよ‼」
違う。僕がするべきことはこうじゃない。分かっていても、僕は止められない。
「ああもう! めんどくさい! さっさと朝ごはん食べなさい! それに光基、昨日風呂入らずに寝たでしょ? 風呂の栓抜いちゃってるから、シャワーだけは浴びなさい。あと、着替えは洗面所に置いてあるから。昼ご飯は昨日のカレーが残ってるから、一人でお米炊いて食べなさい。食器は自分で洗うのよ」
お母さんは溜まっていたのであろう言葉を一気に吐き捨て、大きい足音を立てて、階段を下っていった。
「ああ、今日朝礼なのに間に合わなくなるじゃない!」
階段の吹き抜けに、お母さんの慌てた声が反響する。
呆れた。自分の何もかもに。
どうして、こんなにすれ違ってしまうのだろう……。
***
ボディーソープの泡が、僕の背筋や腰を伝って流れ落ちてゆく。
体の汚れは全て落ちたはずなのに、わだかまりは解けることがない。
僕はプラスティックの椅子に座り、自分の体を抱きしめる。前髪から伝う水滴が、青いタイルへと滴る。いや、滴っているのは水滴だけじゃない。
僕はどれだけ、母に申し訳なく思えば気が済むのだろう。どれだけ、自分を恨めば気が済むのだろう。
そんなことをしたって、自分から溢れ出る性欲など抑えることが出来ないっていうのに。
僕は自分の体を見下ろす。
頭の中では、あの日に見た漫画の一シーンがチラついている。少年の腕から出血する、あの描写を。いつの間にか、あのシーンをもう一回見たいと思ってしまう。少年が痛みによって顔を歪ませられるあの描写を。腕から溢れ出る過剰な出血を。悔しがるあの描写を。
僕のそれは、勃起していた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ‼」
奇声とも呼べる叫びが、明るいバスルームに反響する。
頭の中がめちゃくちゃになっていく。もう、どうしたらいいんだよ。正常な自分を捨てたくないよ。嫌だ、誰か助けてよ。
「キモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイ‼ キモイんだよ‼ 自分みたいなやつさっさと死んでしまえよ‼」
性欲に正直な自分が、本当にうっとおしくて、僕はひたすら自分のものを殴る。やり場のない怒りをぶつけたくても、確かに存在している痛覚に負けてしまう。
自分が滑稽に思えて、僕は自分を殴るのをやめる。いつの間にか、僕は萎えてしまっている。
だけどこれも今だけだ。また性欲をおさえられなくなる時が来る。こんなことしていないで、早く着替えないとと僕はバスルームを出る。洗面所の鏡が無様な僕の顔を映し出し、僕は俯いて洗濯機の上に置かれている着替えを取る。
紺色のシャツに、灰色の短パン。お母さんが僕のために衣服を丁寧に畳んでくれているところを想像してしまい、僕は頭の中の母の影を振り払う。僕は洗面所を出て、自室へと足を運ばせる。
途中にある網戸の方を向いて、僕は丘の下の田んぼの景色へと視線を映す。
この時間になると、登校中の人達は見当たらない。
視線を上げると、盛り上がった住宅街の中に、中学校の体育館が見える。梓が渡してくれたプリントに、一時間目は体育だと書かれていたっけ。今、優はきっと体育館の隅で見学しているのだろう。つまんないな、と思いながら……。
すると、優のお母さんの言葉がふと蘇る。
『休みの日、優くんに絆創膏貼ってくれたんでしょ? とても嬉しかったって、私が帰って来た時優は言ってたわ。光基がいなきゃやっぱ寂しいって』
僕は咄嗟にその言葉を振り払う。
だめだ。僕はもう、優と一緒にいていい存在じゃない。だって、だって、僕は……。
***
左腕から、だらだらと血が流れる。痛い。でも、温かい。腕を切ったときの感覚って、こんな感じなんだ……。
いいか僕、何も考えるな。破滅したらしたで、そこが僕の最期でいいじゃないか。
僕は床に包丁を置き、勃起したそれを握る。自分の腕を傷つけ、その腕に興奮する。それを、自慰の糧とする。それが、僕のとった行動だった。
あまりにも異常で、馬鹿げていて、誰からも認められない。僕はもう、落ちるところまで落ちてしまった。
興奮が、頭の中を支配してゆく。
性的快楽が、僕を包んでゆく。
最低。
本当に、最低。
そして、白と赤が混ざり合う。
汚い。
でも、受け入れないといけない。
これが、社会からいずれ消される人間の取る行動なのだから。
この行為のせいで自分が死んでしまったのだとしたら、もうそれでいい。
社会に迷惑をかけるより、ずっとましだ。
腕から垂れる血液をティッシュで拭く。隣に置いておいた救急箱からガーゼを取って止血。その間にティッシュを大量に使い、床に飛び散った体液をふき取る。拭いきれなかった血液は雑巾で拭き、バケツに絞る。僕はパンツと短パンを穿く。ゴミはキッチン裏の方にある大きなゴミ箱にビニール袋に包んで捨てた。包丁は丁寧に洗い、赤色が見えなくなるまでシンクを水で洗った。振り向いて、コンロにあるカレーの鍋を目にした。食欲が湧くわけがなかった。体全身に、じんわりと汗がにじんでいた。
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