第十八話 贅沢者

 うがいをしても、喉の奥はまだ、吐しゃ物のヒリヒリした感覚に支配されている。

「先生。それはないんじゃないですか」

 リビングの引き戸を開けると、冷徹なお母さんの声が聞こえた。しばらくお母さんは電話を続け、やがてぱたんとガラケーを閉じた。

「はあっ……」

 呆れたように、お母さんはため息をつく。

「お母さん……。ごめん」

「私の方こそごめんね。電話、代わるんじゃなかったわ」

 お母さんはどんな時でも、本当に僕を想ってくれている。それが、僕にとっては苦しかった。だけど僕は、久保田先生のような言い方もされたくなかった。

 そんな僕の考えを誰かが我儘なのだと言い張るのなら、贅沢だと言い張るのなら、僕はきっと、ここで生きていけない。

「光基……。私は光基を、久保田先生の言うように、決めつけなんかしないわ。あなたの考えがまとまるまで、私は光基にしてあげられるだけのことをしてあげたい」

 お母さんは、僕にしっかりと視線を合わせ、言う。

 またこれだ。

 お母さんは、ずっとそう。あなたの好きにできるように、私は受け身で何かをしてあげるという態度。私は公平にあなたを見ていますよという態度。分からないからこそ、もうそうするしかないのだという態度。

 でも、お母さんにこんなことを言わせたのは僕だ。全て、僕が悪いんだ。

 僕の考えなんて、まとまるわけがない。だからって、お母さんに伝えることなんてできない。

「お母さん……」

「なに?」

 優しい声色に、僕の耳が強く拒否反応を示す。


「もう、優しくしないで」


 僕は振り返って、足早にリビングを出、引き戸をぱたんと閉めた。

 吹き抜けの空間には、階段の壁際の網戸から流れてくる夏の暑い空気が籠っていて、電気は付いておらず、リビングからの明かりを僕の体が遮っていた。その空間は、何にも守られていない場所のような気がした。

 ああ、また逃げた。と、心の中の僕がまた呆れる。逃げてるんじゃない、逃げるしかないんだと、もう一人の僕が釈明する。だけど確かに、最低なことをしたのだという感触だけがそこに存在していた。

 僕はただ逃げるように、突っかかりそうになりながらも階段を登った。

 すると。


「もう、どうしたら良かったのよっ‼」


 張り裂けたお母さんの声が聞こえた。その悲痛な甲高い声が、まるで針のように僕の頭を刺し、これ以上ないほどの罪悪感に駆られた。自室のドアを開け、僕はベッドの中に包まった。

「ああ……」

 声が震える。

 もう、誰とも話せない。この空間から出ることはできない。

 風呂にも入らず、歯磨きもせず、夕食後のごちそうさまも言わず、僕はこのまま寝てしまおうと思った。

 お母さんは、やっぱり僕の扱いに迷っていた。そうだ。お母さんだって、全能のように思えて、だけれど誰とも変わらない人間の一人なんだ。

 もう僕は、誰とも生きていけない。お互いが共感して繋がっていくだけの人間関係を必要とされる世界に、僕は必要とされていない。

 ごめん、ごめんと心の中で唱えながら、僕は眠りについた。

 頭の中で再生されるのは、ニュースに流れていた近隣住民の声だった。


 ***


 まっさらな、安定した黒い地面。だけど地面は少しずつ下り坂になってゆき、いずれ、白濁と赤の混じった泥沼のような溜まり場に行き当たる。靴の中は汚れないだろうかと心配しながら、僕はゆっくりと足を踏み入れる。

 どぷん。

 泥沼よりも粘り気の強い音が、壁のない真っ暗な世界に響き渡る。

 大丈夫だ。何とか足はつくみたいだ。

 だけれど、触感が気持ち悪い。

 歩みを止めてしまいたい。

 だめだ。

 立ち止まるのは許されない。

 なんとか足を進める。

 穢れないように、誰にも見られないようにと気を付けながら。

 進んでいくと、自分の体が少しずつ悲鳴を上げ始める。きーん、と耳障りな耳鳴りが頭の中で響き始め、僕の意識はうまく保たれないまま、だけどぷつんと切れてしまわない糸のように、僕は歩みを進める。

 この感覚が、馬鹿みたいに気持ち悪い。

 いっそ、糸が切れてしまうか、がっしりした糸につながれているか、きちんと決めてほしい。それなのになぜ、この世界は極端じゃないのだろう。

 ……光基、話さなくてもいいわ。話したいのなら、話してもいい。

 なに? この声は? 僕を掬いあげてくれるの?

 ……無理しなくても大丈夫だから。

 無理しなくてもいい? じゃあ、どうやったら無理のできない状態になれるの?

 ……みんなが迷惑してるんだぞ? 協力し合えるクラスにするんだろ?

 あれ、痛いよ。ねえ、この沼、痛いよ?

 ……私はあなたを、決めつけたりなんかしないわ。

 違う。これは救いじゃない。押しつけだ。これじゃ、僕はどうやったって沼から抜け出せない。

 ……いやもう、気持ち悪くて仕方がないですね。本当に血に興奮するなんて人考えられないし、モラルに欠けてて気持ち悪いっていうか……。そういう人がいるって考えただけでゾクってします……。

 え?

 自分は他人だと思っている人の言葉が、僕を躓かせる。前方に倒れ、どろどろな白と赤の液体にまみれる。

 ああ、汚れてしまった。リセットしたい。洗い流したい……。

 僕は何とか立ち上がる。立ち上がれるだけの意識はまだある。心拍音が響いている。とく、とく、とく。この世界に響く。まだ僕は生きている。

 とく。とく。とく。

 少しずつ。音が輪郭を成していく。僕の実在する聴覚に響く。

 こん。こん。こん。

 あれ、この音は。


 ***


 僕は、目を覚ます。自分の体を洗わないまま寝てしまったのなんて初めてのことで、この布団にいるのが少しだけ気持ち悪かった。昨日の意識がまだこの体に残っている感覚がした。

「光基……」

 どこかから、ぼそりと呟く声が聞こえる。

 朝日の差した部屋に、優しくドアのノックが響いていた。

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る