第十七話 迷惑(残酷描写あり)

 自室から出て、吹き抜けの階段をだらだらと降りる。降りた先はすぐに玄関なのだけれど、僕はそのままドアを開けるのに戸惑った。僕はインターホンのカメラを見るためにわざわざリビングへと行き、玄関に映っている人間を目にした。

 今日も、プリントを届けに来たのは優ではなかった。

 分かっている。一日目は優は祖母の家に泊まっているから、僕の所へとプリントを届けに来るはずなどない。でも日がたつごとに、ここに優がプリントを届けに来るのではないかと思うと、身体が冷えていく思いがした。

 僕は、もし優に会ったとき、どんな顔をすればよいのだろう。優のお母さんは退院したのかどうか、僕はよく知らない。僕の母と優のお母さんの仲はいいが、僕と母の間で人の家庭の話をするような雰囲気が流れているわけではない。

 僕はリビングの出口へと向かい、履かなくなった靴を履いて、玄関のドアを開けた。ちりんちりんと場違いで涼し気なベルの音が鳴ると同時に、比較的近くに住んでいる女子が視界に映ってきた。

「あ、光基君、これプリントね。保護者に書いてもらうプリントもあるから、そのこと伝えといてって久保田先生が言ってた」

 この女子、梓由香は明るい口調で言った。梓はクラスのムードメーカーののような存在で、チームワークなどでの責任感が強い人間だ。

「ありがと」

 特に梓と話すこともなかったから、それだけを返した。

 外で空気を刺激する蝉の声が、一層強くなる。家の外と中にいる二人では、まったく存在している場所が違うのだと、僕はひしひしと感じた。

 その後、少しだけ沈黙が流れたあと、梓が言った。

「あんまり、無理しなくても大丈夫だから。私たち、いつでも待ってるからね。何か悩みがあれば、誰に話してもいいから」

 八の字に下がった眉から、梓が必死に言葉を紡ぎ出そうとしているのが分かる。

 悩みがあれば話していい。話したいなら話していい、話したくないのなら話さなくていい。ゆっくりでいいから。無理しなくても大丈夫だから。お母さんも、この女子も、同じことを言う。実際、僕も逆の立場だったらおんなじことを言っている。優もきっと、同じことを言うのだろうか。

 その言葉を聞くたび、やめてくれ、と思う。僕なんかに救いを差し伸べないでくれ、と。その言葉はきっと、自分が悩んでいる人の感情を理解できる、受け止めきれると思っているから出る言葉だ。僕みたいなやつは、きっと誰にも理解されないし、受け止めてもらえない。だからと言って、僕みたいなやつが偉そうに誰かを指摘することもできない。できる立場にいない。できる立場なんてそもそも設定されていない。

 僕はきっと、最低な感情にばかり捕らわれて生きていくしかない。

『みんな待ってるよ!』なんていう、威圧的な言葉の載った時間割のプリントが表に貼られた封筒を、僕は受け取った。


 ***

 

「……それでね、担任の久保田先生が、光基と話したいって」

 夕食中、僕のお母さんはそう言った。お母さんによると、担任の先生から電話がかかってきたようで、光基に伝えたいことがある、と言われたそうだ。担任の先生は体育の教科の担当で、僕はその先生の、生徒のことを何もかも分かって斜め上から見てくる態度が嫌いだった。

「え……」

 きっと、いい話ではない。僕にわかることはそれだけだった。

「あのね、光基、こういうことはあまり言いたくないんだけど……」

 お母さんはそう切り出した。

 テレビで放送されているニュースの話題が切り替わる。にこやかなアナウンサーの口調が、一気に重苦しいものに変わる。

 ――次のニュースです。

「実際問題ね……」

「分かってる‼」

 僕は母の声を遮った。全部分かってる。自分では分かってる。でも、他の人からは聞きたくない。

「出席日数も足りなくなって受験の時に不利になるかもしれないんでしょ⁉ 先生だって成績つけるのに戸惑うし、テストも近いし、課題も出さなきゃいけないし、委員会の仕事だって誰かに任せっきりになるわけだし!」

 外の空気はまだ明るい。でもそれは今だけだ。

 ――市のアパートで、女性の腕を切り取り殺害したとして……。

「何より迷惑なんでしょ⁉ お母さんが仕事に行ってる間、ずっとここにいて、学校のみんなからしたって、委員会とか勉強とかほっぽり出したように見えて、課題未提出者への対応とかめんどくさいんだって! 分かってるんだよ!」

 ――46歳……容疑者が逮捕されました。……容疑者は……。

 だからって、どうしろって言うんだよ。分かってるからなんだよ。現実だからって何なんだよ。僕がそれを言ったところで、なんの解決になるんだよ。ていうか、僕は何を解決したいんだよ。解決したいことなんてそもそもあんのかよ。全部自分のせいじゃないかよ。

 ――血を見ることに興奮する衝動を抑えられなかった、だから誰かを殺したかった、と供述しており……。

 そこで、僕の勢いが止まる。

 え、いま、なんて……。

 僕はテレビの方へと視線を移動させる。

 見たくない。見ないほうがいい。もう現実をこれ以上直視したくない。

 分かっているのに。


『46歳男性、女性の腕を切り落とし殺害。「血を見る興奮を抑えられなかった」』


「え……」

 僕は膝から崩れ落ちてしまう。

「光基?」

 お母さんは立ち上がる。

 嫌だ。

 こんなニュース、絶対に見たくなかった。

 僕はこの容疑者と、いつか同じになってしまう。

 そうか。分かった。きっと、僕みたいなやつは、社会からいずれゴミ扱いされるんだ。人間の異物、失敗作、レールから外れた外道。そんなレッテルを、いずれ貼られる。

 そうか、僕は、何も解決することが出来ないんだ。このニュースは、、と僕を嘲笑っているのだ。お前はこの世から消えるべき存在なんだと揶揄しているのだ。

 僕は綺麗に掃除された木製の床に手をつく。

 ああ、バカみたい。

 すると、どこかからバイブレーションが聞こえてくる。

「あ、先生から?」

 母はソファに置いたバッグに手を突っ込み、ガラケーを開いて耳に当てる。

「はい……。はい……。あの、でもですね……。え、あ、はい……。すみません……代わります……」

 やめろ。お母さん。

「ねえ、光基……」

 お母さんは僕の隣にしゃがみ、開かれたガラケーの画面を突き出してくる。

「や、めて……」

 震えている。僕の声が。体が。

『光基、怠けた態度とんのも大概にしな?』

 ガラケーから、微かに声が聞こえてくる。

 え、久保田先生……。

 僕はゆっくりとガラケーを温かい母の手から受け取る。

「はい……」

『久しぶりだなあ光基』

 先生は、そう言う。何か、先生は隠している。


『……お前さ、はっきり言ってたるんでるだろ?』

 

 はっ……。と僕は息を吸う。ダメだ。これ以上聞いちゃいけない。僕はすぐにそう思う。

『なんか苦しそうに言い訳だけしてだるさから逃げてるだろ? 俺には分かる、そういう生徒今までいたしな』

 ――この猟奇的な事件に対し、近隣住民の声は……。

 ニュースはまだ続いている。

『おい、クラスでみんなで掲げたスローガン覚えてるよな? ここで言え』

「え……」

『言えっつってんだよ‼』

 頭の中で、永遠と何かがぐるぐる回っている。またはその速度に急激にブレーキをかけようとしている。何が回っている? 何がブレーキをかけられている? 思考? 血液? もうよくわからない。

 頭の中に怒号が響く。脳みその中で何かが弾ける。思考か? 血液か? 分からない。混乱していく。助けて。助けて。助けて助けて助けて助けて助けてたすけてたすけて……。

「みんなで助け合おう! クラス36人が集まるクラス、ですっ!」

 涙をぼろぼろと流しながら、僕はやけくそになって叫ぶ。

 スローガン。みんなで、助け、合えるわけがない。

『お前分かってるじゃねえかよ! じゃあお前分かるだろ! お前が一人いないだけでそれが達成できないの分かるだろ! お前が来ないだけで、みんっっっなが迷惑してるんだぞ⁉ もっと協調性を大事にしろ‼』

 ――いやもう、気持ち悪くて仕方がないですね。本当に血に興奮するなんて人考えられないし、モラルに欠けてて気持ち悪いっていうか……。そういう人がいるって考えるだけでゾクってします……。

 協調性を大事に? じゃあ、なんだよ。僕、血を流している人に対して興奮するんですよね。そうなんですか、私はあなたの変わっているところも認めますよ。ってことかよ。馬鹿じゃねぇの。

『みんなに優しくしてもらってるかもしれないけどな、』

 優しさなんて求めてないよ。

『お前はまだ分かんないかもしれないけどな。現実ってもんがあんだよ。実際迷惑になってる。大丈夫だ。お前は成績もいいし、すぐに戻ってくるだろ? あんまりクラスの仲間に心配かけさせんなよ? あ、あと期末テストの期間についてだけどな。プリントが封筒の……』

 もう、耐えられなかった。胃が苦しかった。全身が、生き物がするべきではない反応を起こしていた。

 気持ち悪い。何も考えたくない。寒い。もう、動けない。

「うっ!」

 一気に頭の中がぎゅっと締め付けられた感覚に陥る。

 胃が逆流する。

 体温に等しい温度の吐しゃ物が食道の入り口までせり上がり、僕は一気に、床にそれをぶちまけた。

「光基っ⁉」

 お母さんは慌ててガラケーを取り上げ、ぱたんと閉じ、僕の名前を呼び続けた。

「光基? 光基? 大丈夫?」

「ごめん……」

 床を汚して、ごめん。

「いいから! 洗面所行って! 私が床掃除するから!」

 そう言われると僕はふらふらと立ち上がり、洗面台の方へと歩いて行った。

 リビングの外の廊下は、もう暗くなっていた。

 

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