第十五話 軽くて重い
朝、起きた。笑ってしまうくらい体が脱力しきっていて、こんな目覚めは始めてだと思った。ベッドの感触や、その匂いや、外から聞こえてくる声が、やたらと僕の五感を刺激する。朝起きたら嫌なことは忘れている、なんて誰かが言った言葉は嘘っぱちで、非現実的なあの感情が、今は色を失って、現実にある僕の心にすとんとピースがはまるように存在していた。
かっちりと、歯車がかみ合うように、定着していた。
そのことがまた僕を軽く絶望させ、目を覚ましてから十秒ほどしかたっていないのにも拘わらず、「死にたい」と思った。
だけど、朝食の時間は来る。学校の朝の会の時間は来る。
僕はその流れに乗らないといけない。
今まで僕は、この流れに当たり前のように乗れていた。なのに、僕は今、それを避けたがっている。静かに、重たく、まるで磁場か何かがそうさせているように、水と油がグラデーションを作らないように、ただ体が拒否していた。
「大丈夫、光基?」
一口一口が小さい僕を見て、前に座っているお母さんは訊いた。リビングにさわやかな朝のニュースのテーマソングが流れ、僕の胃はただ縮んでいく。
僕は俯く。四分の一くらいしか減っていない食パンが目に映る。
「……」
僕は、どう答えたらいいのか分からなかった。この感情を、辛いと形容すればいいのか、分からなかった。だけれど今、確実に学校に行けば、僕の居たい場所はここではないと思ってしまうだろう。
それくらいに体が軽く、重かった。
「ねえ、学校休むなんて、だめだよね」
僕はそれだけ口に出した。お母さんが僕のことを考える材料はたったそれだけで、僕はきっと、お母さんをとても困らせているのだろうと思った。
「それは、光基がどんな気持ちかによる。何か、あったの? 辛いことあったら、何でも話していいのよ?」
何かあったわけではない。いじめられたわけでも、仲間外れにされたわけでもない。全部自分のせいで、全部自分の思い込み。そんな理由で学校を休むなんて、と怒られてしまいそうで、僕は何も口に出せなかった。
ましてや、僕が抱く感情についてなんて、話せるわけがなかった。
いっそ、誰かが僕のことを傷つけて、分かりやすく僕の心が傷ついて、休む口実を作れてしまえたらいいのに、という考えが僕の頭の中を過り、振りほどいた。
「ごめん。ちゃんと学校行く」
僕は食パンを齧る。そうだ。話さなければいいのだ。誰にも。この気持ちを隠して、それを貫いていけばいいのだ。僕は、そう思った。
外は晴れていた。リビングの小窓を通して、田んぼが朝日に照らされ始めている風景が見えた。水面に浮く光の粒達が、僕を歓迎しようとしているように見えて、僕を遠ざけようとしているようにも見えた。
テラスも馬鹿みたいに美しく、色とりどりの花が、朝露を喜ぶかのように咲いていた。テラスの真ん中には、まるで母のように花々を見守るブナの木があり、物干しざおを支えていた。
***
行ってきます。
いつの間にか言葉にしなくなったことをつぶやき、僕は靴を履いてドアノブに触れようとした。だけど、制服も、学校指定の黒の靴下も、白い靴も、重量の軽い名札も、今僕が身にまとうべきものでないと思えた。
靴を履いてしまった今、それがはっきりと分かってしまい、どす黒い感情で埋め尽くされ始める。その増殖を止めたのは、母だった。
「光基」
お母さんは僕の手を掴んだ。その手から、僕は様々な跡を感じた。料理をした跡。洗濯をした跡。掃除をした跡。仕事でパソコンを触った跡。誰かと仕事で手を繋いだ跡。お金を受け取った跡。お母さんの手にはいろんなものが重く、そして軽く乗っていて、掴まれただけでそれを感じ取ることができた。
安心した。引き留めてくれて。手を差し伸べてくれて。
絶大な大人の力がそこにあるように思えて、僕は、脱力しきってしまった。
まるで本の重みに耐えられず、ブックスタンドが倒れてしまうみたいに、しゃがんでしまった。
その動きでお母さんの手はほどかれてしまったが、僕は今、誰かに縋っていいのだと思えた。僕は立ち上がり、お母さんの方へと振り向いた。
それは、学校を休むという意思表示だった。
「光基、話さなくてもいいわ。話したいのなら、話してもいい。理由は分からないけど、光基は今、とっても辛いんでしょう?」
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