第十話 子供の頃

「あ、光基! 今日さ、あの妖怪捕まえたぜ! やっと交換できるな!」

 僕が家のチャイムを鳴らしてすぐ、優は白い玄関のドアを開けて話し始めた。優は携帯ゲーム機を大事そうに持ち、少し興奮気味に話す。優にはゲーム友達は他にはいないらしくて、少し寂しかったりするのだろうか、と僕は思う。

 僕は玄関のアプローチのタイルの上に立ちながら、優の頬に走っている赤い線を目に捉えた。

「優くん、また血、出てるよ……」

 優は純真な瞳を左頬の方に移す。

「あ、ほんと? ありがと」

「僕が手当てするから、上がろ?」

 僕は優の家の救急箱の位置を把握している。同じような状況を、これまでいくつか経験したけれど、やっぱり僕は慣れそうにない。


 無痛無汗症。痛みという感覚がなく、温度を感じることもできないため、発汗の機能が著しく低下する、または備わっていない。優の病気には、そんな名前がついている。優の状態に分かりやすく名前を付けようとするとき、この病名がぴったりと優しく寄り添い、もやもやとした部分を晴らしてくれるようにピースをはめてくれる。

 それが親切なことなのかどうかは、きっと場合による。自分のことを分かりやすく言い表してくれる名前がついていることに安堵することだって、自分に付いた状態の名前を、まるでゲームに出てくる呪いの装備みたいにうっとおしく思うことだってあるだろう。

 優は、自分の病気をどのように思っているのだろうか。

 僕は優の傷口を洗面所で洗いながら、そんな風にやんわりと思ってみたけれど、これと言った回答は出なかった。

 優の二階の部屋で絆創膏を貼りながら、僕は、今向き合っている人間が、日本で十数人しかいない難病を患った人間なのだということをうまく認識できなかった。僕にとって優はただの近所の仲のいい友達で、かわいそうな目で見る対象でも、物珍しいものを見て面白がる対象でも何でもない。

 ただ優が傷ついたら悲しいし、優が喜んだらこっちだって嬉しい。

 僕は優と、普通の友達として接している。

「ありがと、光基君。いつも助けてもらってばっかりだな。ごめんね」

 絆創膏を貼られた優は、少し複雑そうにカーペットに目を落としながら言った。

「全然。おかげで手当てすごい上手くなっちゃったけどね。それよりさ、例の妖怪捕まえたんでしょ? 早く交換しよう!」

 僕は救急箱に物を戻しながら言った。優とあまり病気の話はしたくなかった。

 その後は、僕達は二人でゲームをして遊んだ。通信のやり方に戸惑って困惑したり、ボス戦を攻略して喜んだり、対戦に負けて悔しがったりする僕達の様子は、どこにでもいる中学一年生そのものだった。

 そして五時のチャイムが鳴り、僕達で定めたルール通りにゲームをやめ、僕は玄関で優と別れた。丘の上にある団地からは、水が張られきらきらと夕焼けに照らされる田んぼが見えた。

「じゃあ、また明日。学校でね!」

「うん!」

 優は、絆創膏の貼られた顔でにこりと笑った。


 優は無痛無汗症という病気で、学校ではいろいろな対策がなされている。送り迎えは親が行うし、体育は基本的に見学。美術や家庭科、理科の授業では火器や刃物などの扱いを避けるように言われている。

 普段は僕のいる教室ではなく、支援の教室に優はいる。病気だから、ということもあるけれど、優はそこまで対人関係が得意というようなタイプじゃなかった。というより、対人関係こだわらないタイプ、と言った方が近いかもしれない。面白がる男子たちも、贔屓目で見てくる女子たちも、色々鬱陶しかったのかもしれない。今ではクラスのみんなはそんな環境に慣れ、話題に出すときにしか出さなくなった。お互いにみんなで助け合おう。分かりやすいスローガンを掲げ、クラスの雰囲気は徐々に良いものになっていった。

 僕は学校の昼休み、優のいる支援教室にやって来た。それはいつものことで、その時僕達は学校のワークを進めたり、読書をしたりしていた。光基は優と仲がいいよね。そんな風に友達は声をかけてくれることが多くなったように思う。その声に後ろめたさがない分、僕は優とさらに時間を過ごすようになった。

 僕と優が仲良くなったきっかけは、別に特筆して話すことでもない。

 お互いの環境がシングルマザーだということが、母親を通して僕達を近づけたのかもしれない。

「あーなんか、中学生になってから勉強難しくなったよなー」

「そうだね。算数も数学になっちゃったし、比例の所とか、グラフ書いたりするなんて思わなかったよね」

 僕達は机に向かい合うように座り、ノートを眺めながら話した。

「またまたそんなこと言ってさ、次のテストでもいい点とっちゃうんだろ?」

 優はじとーっとした目で僕を見る。優の後ろにある本棚には、支援教室で作ったのであろう、折り紙や木工の作品が置かれている。

「うーん、でも本格的に難しくなってきたからなー」

 そんなことを言って僕は茶化す。実は結構数学の勉強を先取りしていることは優には内緒だ。


 学校が終わった後、僕達は優のお母さんが迎えに来るまで学校の駐車場の周りにある木陰のベンチで二人で話していた。

「優のお母さん、大変じゃない? 送り迎えしてもらったり、優くんの食べれるご飯考えて作ったり」

 そう言った途端、優に対してその言葉はまずいかもと思ったけど、優は気にしない様子で言った。

「うん、そうかも。お母さんは毎日俺のために頑張ってて、凄いって思う。市から、助成金? って言うのをもらってるらしくて、お金は何とかなってるみたいだけど……」

「あ、それ僕も一緒だ」

 そう言い放つと、水泳部から聞こえてくる活発な声が、僕達の沈黙の間を埋めた。別に僕達は沈黙を気にするほどの仲ではない。互いのペースがうまくかみ合うこの感覚が、僕にとっては居心地が良かった。

 優は手に下げた大きな水筒の中のお茶を飲み始める。優は夏の間、こまめに水分を取るように言われている。体温の調節が利かないため発汗できないから、周囲も優の体温には気づかない。こまめに水分を取る優の、上下する喉仏の周りには汗が一滴も滴っておらず、僕は、まったく無関係の人間がこれを見たら違和感を覚えるだろうなと思った。

 そうしているうちに校門から白い車が入ってきて、ナンバーですぐに優のお母さんの車だと分かった。

 優しそうな風貌の優のお母さんが中から出てきて、ベンチから立ち上がる僕達の方に駆け寄ってきた。肩に白いバッグをかけていて、何だか仕事のできる女性という感じがした。

「あ、光基君、優のこと見てくれててありがとうね」

 優の車の中は冷房が効いているだろうに、優のお母さんの首筋に伝わる汗は乾ききっておらず、微かな線を作っている。それだけでも、忙しさが伺える。

「いえ、そんな。僕達はただの友達ですから」

 なぜか慌てて言ってしまう僕を、優のお母さんはかわいがるように優しく笑い、そしてこう言った。

「休みの日、優くんに絆創膏貼ってくれたんでしょ? とても嬉しかったって、私が帰って来た時優は言ってたわ。光基がいなきゃやっぱ寂しいって」

「え、ちょちょちょっと、お母さん……」

 今度は優が頬を赤らめながら慌てて両手を伸ばす。からんと、優の持つ水筒が音を上げた。

「え、優くんそんなこと言ってたんですね」

 そんな優をからかいたくなって、僕は優のお母さんに言った。優はもっと頬を赤らめて、体温調節するみたいにごくりと水筒を飲んだ。僕はその様子が可笑しくて、優のお母さんと一緒に笑った。


 

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