第八話 僕のすべて(残酷描写あり)

 受付を済ませ、僕達は病院の神経内科への廊下を歩いて行く。

 マットを一歩一歩踏みしめながら、僕はどこかから流れてくるバイオリンの音を聞き取る。曲名は分からない。廊下には名前の知らない絵画が飾られ、明るいオレンジ色の光が白い天井から放たれている。

 歩いていると、優は僕の裾を引っ張った。振り返ると、優は少し恥ずかしそうに、

「あ、トイレ行ってもいい?」

 と隣にあるトイレの入り口を指さした。同時に、黒いパーカーを着た、トイレに入っていく男の背中が一瞬だけ見えた。なんとなく優の力が弱々しく思えた。昨日の優のことを想うと、それは当然のことのように思えた。

「いいよ」

 僕はそう言う。優はトイレへと入っていく。さすがに中にまでついていくわけにはいかない。僕は木製の壁に寄りかかり、ショルダーバッグからスマホを取り出して眺めた。

 僕はいつものように、優の病気に関するネットの記事を見漁っていた。検索結果のトップに出てくるサイトの文なら、ほぼ暗記している。

『捻挫や火傷、凍傷を無意識に引き起こす』

『室温調節、リハビリが必要』

『遺伝性感覚性自律神経性ニューロパチーに属する疾患。その内の4型は温度や痛覚は消失しており、全身の発汗の機能が消失しているか、または低下している』

『遺伝性疾患。4型はNTRK1の遺伝子変異によっておこると言われているが、それが症状に結び付く明確なメカニズムは分かっていない』

『今の所、根本的な治療法は見つかっていない』

『小児期に脳症で死亡したり、成人して蜂窩織炎で死亡する患者がほとんど。

 きっと、優はこのような記事を思い出し、あの時泣いてしまったのだろう。最後の文は、僕の目の奥も熱くした。僕は、何とかこの治療法を見つけられる研究がしたい。僕は、優に痛みを、温度を教えてあげたい。

 スマホで文を追って、少し目が疲れだすと、トイレの奥から水の流れる音が聞こえてきた。そして、

「あっ、すみません」

「あ、いえ」

 という声が聞こえてきた。後者が優だ。

 そして、優よりも先に、一人の黒いフードを被った男がトイレから出た。

 そいつは、何もなかった風に僕から遠ざかっていく。

 その時、僕は一瞬、息をするのを忘れた。全身の血の流れが一気におかしくなってしまったんじゃないかと思うくらい、身の毛がよだった。


 ――まさか、こいつが?


 頭の中はそれだけっだった。

 少しして、優がトイレから出てくる。優の表情は、少し、いや、だいぶ青ざめていた。

「な、なあ、なんか背中が気持ちわりいんだけどさ、ちょっと背中見てくんない?」

 優は、力の抜けたような、そんな笑みを含んだ声で言う。

 嫌な予感が、額の奥を渦巻いている。

 あいつは、僕の見間違いでなければ、たしか……。

 ぴた、ぴた――。

 おい、なんだ、この音……。

 僕の呼吸が乱れていく。視界が歪んでいく。考えがまとまらなくなっていく。

 優は、ゆっくりと僕に背中を見せる。

 何も、見たくない。

 何も、受け入れたくない。

 僕の心は必死に拒む。けれど、目にそれは映ってくる。

 なあ、こんなのありか?

 ここまで来て、ここで終わりか?

 積み上げてきたものが、今までうまくいっていた、調和の取れていたものが、まるでジェンガみたいに一気に崩れ落ちていく感覚に、僕は支配された。

 僕の全てが、今ここで崩れた。


 優の背中には、一つの包丁が、刃を横にして突き刺さっていた。

 

「おい、光基、なんか言ってよ……。きもちわるいんだけど。ねえ、なんかヤバいのか? なあ、みつき? みつき?」

 鮮血が、どろりとマットに垂れてゆく。ピタピタと点を作った赤い血はそれに上書きされ、段々面積を広げていく。

「ねえちょっと、やだよ? 刺されてんの? おれ……。なあ、うそだろ?」

 優は力の抜けた声を出す。僕は開いた口がふさがらないまま、何も声を発することができない。

 ほどなくして優は床のマットに横に倒れ込む。僕は膝から崩れ落ち、優の脇腹と、僕の膝とで同時に血しぶきが上がる。

「……」

 優はもう、何も言わない。

 ちらりと、優の光の失った目が見えた。

 目の前には、背中に突き刺された包丁。

 この出血量じゃ、もう間に合わない。

 抑えようにも、脱力してしまい、そんな思考にまで至らない。ここまで勉強してまで、僕はこんな時に何もできない。

 もう、涙も、声も、何もかも出てこない。なぜ、なぜ、と頭の中で繰り返している。それは、何故優が殺されてしまったのかという理論的なことじゃない。何故優は死ななければならないんだと、僕は頭の中で問うている。

 そして、左から男の叫び声が聞こえてくる。

「おい、光基何やってんだよお前っ⁉」

 声のした方を、力なく向く。

 そこには、黒いパーカーを着た、トイレを出た男性が僕を睨みつけていた。

 そいつはスマホを耳に当てる。

 間を開けて、そしてこう言うのだ。

「病院の廊下で、俺の友達が男に包丁を刺して殺したんです。はい……。はい……。その病院で合ってます……」

 一発で、何をしようとしているのか理解した。こいつは警察に通報している。

 僕に、濡れ衣を着せようとしている。

 僕は、こいつが何をしたいのか、何をするつもりで優を殺したのか、一瞬で理解した。

 ごめんなさいと、僕は放心しながらそう思うことしかできなかった。

 

 

 

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